平岡直子


月面に脚(あし)が降り立つそのときもわれらは愛し愛されたきを

村木道彦『天唇』(ぐみ叢書:1974年)
※引用は『村木道彦歌集』(国文社:1979年)より


 

空疎な歌だと思う。そして、その空疎さが惹かれるところでもある。

乳房その他に溺れてわれら存る夜をすなはち立ちてねむれり馬は/塚本邦雄
くるおしくキスする夜もかなたには冥王星の冷えつつ回る/大滝和子

たとえば塚本邦雄や大滝和子のこれらの名歌と掲出歌は似たような構造を持っている。あるいはこれらの歌よりは落ちるかもしれないけれど、類想歌は他にもそれなりの数があるだろう。卑近なある瞬間と、はるか遠い場所での出来事がならべられることが歌のスケールを広げ、その極端な遠近感が歌に迫力を付す。そして、こういった歌と比べると、掲出歌の空疎さの理由はいくらでも説明できるような気がする。
まず感じるのは掲出歌の物腰のやわらかさである。大滝の歌の「かなたには」の親切さは言わずもがな、塚本の歌が「乳房」のある上半身と「立」つ馬の下半身を完全に分断していて、「すなはち」が場面の切り替えとして働いているのに対して、村木の歌の「そのとき」はその上下をやわらかく接続していて、「月面に降り立つ脚」が「われら」のものであると言っているようでもある。
他にも細かいことはいろいろ言える。月面の無重力感が一首をどこかふわふわしたものにしているのかもしれないし、「回る冥王星」や「立ってねむる馬」を乳房やキスとはおそらく同時にみることができないのに対して、テレビにも映る月面着陸は歌の場面に入れ込まれているようにもみえるのも一因かもしれない。「馬」や「冥王星」とちがって「月面着陸」から人間の文明を感じるし、それは「乳房」や「キス」のどぎつさに比べて観念的な「愛し愛されたい」というフレーズと相まって、一首の態度をクールにもみせているだろう。
しかしわたしがここで気になるのは、『天唇』を読み返していてふと気づいた、初句切れの歌の多さについてである。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
おお! そらの晴れとねぐせのその髪のうしろあたまのおとこともだち
夏きたり わがひだりてはよいやみにわがみぎうでをつかみてとりき
あれは五月 ひとの口真似するとりの果物店にかわれていたり

二首目の「おお!」は初句の句割れなので厳密には初句切れではないけれど、こういった初句のつよい歌をみていて疑いたくなるのは、言いたいことは字空けの前の短い文字数ですでに言い終わっているのではないかということだ。仮に「するだろう」というなにかしらの予感のみが言いたいことであっても、5W1Hのせめていくつかは満たさないと文にならない、その最低限の目鼻がうっすらと書きまれているのが『天唇』の歌なのではないかと思う。そしてたとえば一首目では、二句目以下の光景は「ぼく」の妄想、もっといえば願望の中にしかないという内容面の淡さがその文体と重なり、さらに「マシュマロ」のくちどけの淡さにまで重なっている「淡さのつよさ」のようなものがこの一首をここまでの有名歌に押し上げたのではないだろうか。
一首目の「する」「すてたる」や「ものがたり」「ほおばり」、二首目の「お」の音の支配、三首目の「ひだり」「きたり」と、先に出てきた音を拾って韻律を整えていくような展開を読んでいると、四首目の「ひとの口真似するとり」とは「初句の口真似をする下句」のことなのではないかと思えてくる。掲出歌に目を戻すと、月面に降り立った「あし」が引き伸ばされたかのような「あいし」や、それが「あいされ」に変調したのちの「たき」に塗りこめられる「あい」の音を追っていくに、歌の上半身に登場してしまった「脚」は歌の下半身まで届かない。月面に触れようとして無重力ゆえに失敗する脚のように。
これは「愛」の歌ではなく「脚」の歌なのだと思う。

 

めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子/村木道彦