染野太朗


蠟燭に火は慄えつつ リア失冠の間にも控えていたはずの燦

鈴木加成太「紙上の塔」(「現代短歌」2017年12月号)

 


 

鈴木加成太の歌の特徴のひとつに、思索や直感の「映像化」というようなのがたぶんある。その映像のあざやかさが、鈴木の角川短歌賞受賞作「革靴とスニーカー」の歌に比べて、最近の総合誌で見かける歌ではより増しているなあと僕は感じている。

 

缶珈琲のタブ引き起こす一瞬にたちこめる湖水地方の夜霧
地平線焼き切るときの火の匂い 簡易珈琲のふくろをひらく
水底にさす木漏れ日のしずけさに〈海〉の譜面をコピーしており

/「革靴とスニーカー」(角川「短歌」2015年11月号)

 

現実(の行為)において感じ取ったなんらかの印象が、「湖水地方の夜霧」「火の匂い」「水底にさす木漏れ日」といったような、色彩をともなった映像とともに(あるいは、そういった映像に変換されて)提示されている。しかもそのそれぞれに体感や動きが伴っている(だから、平面にある映像ではなく、3D映像・ホログラフィーの類いとして感じられる)。日常のあらゆるところに鈴木が貼りつけていくイメージや喩は、思索や直感の結果でありながら決して観念には流れず、そのつど物質化されたものとして、映像としてそこにある、というような印象をもつ。「革靴とスニーカー」には、

 

社会人未満の春に例年をわずかに下まわる夢温度
時間さえあればなんでもできるのか資料は増えて鞄は太る
しんろしんろと来る自転車に尾を引いていた悲しみを撥ね飛ばされる

 

といったような、現実の生活のありようや、現実に即した屈託や葛藤の類いが見えていたのだが、それが最近の総合誌の作品においてはあまり目立たず、とにかく輪郭の濃い映像が色彩をあざやかにして迫ってくる、という感じを僕は受ける。

 

映像と言っても、その質感は、油彩や水彩の「絵画」に近いかもしれない。

 

風牽きて少女は歩む図書館に花びらほどの詩句あつめては
みずいろに水を湛えて消灯のプールは星の生け簀の揺らぎ
綴じるためコピーの隅にあけてゆく穴より白き鱗はこぼれ

/「十二色」(角川「短歌」2017年5月号)

北窓の部屋はアトリエに好いと云う 果実の色に昏れるその部屋
せいねんを水死へ誘う眸(まみ)ほそき白馬のように春は来ている
ボールペンの解剖涼やかに終わり少年の発条(ばね)さらさらと鳴る

/「白馬のように」(「歌壇」2018年5月号)
※( )内はルビ

 

「紙上の塔」13首については、その絵画的な映像の色彩・質感のあざやかさだけでなく、さらに、韻律・音の面でも心地よく迫るものがあった。特に今日の一首。シェイクスピア「リア王」の悲劇の物語を背景に据えるが、リア王にではなく、その「間」(ま、と読んで「部屋」を指しているととらえてよいだろう)に燃えていたはずのろうそくの炎に焦点を当てている。「慄」は「ふるえる」と読むはずだが当然この文字には「恐怖」の意味が滲むし、「燦」はろうそくの炎のきらめきをイメージさせながら音の面で「惨」も引き連れてくる。これが「リア王」の内容に重なっていくわけだが、そのような内容によってのみこの歌を読むのはあまりにももったいない。やはり立体的な映像が目を引く。リア王(の悲劇)をきらめきながら見守っていたような炎のようす、「控えていた」という語によってイメージしやすくなるこの「間」の空間上の奥行き、さらに「つつ」と言い差してろうそくの炎のあの頼りない揺らめきに動きを継続させ、「燦」と言ってあくまでも光を強調するこの描き方。そして実は「間に「も」」というところから、歌が実際に描いているのはあくまでも目の前の現実の炎であること、また、それに加えて表出している「控えていた「はずの」」というわずかなためらいは、ごく淡くではあるが、この本人が(未来に)抱え込むなんらかの(悲劇に連なりうる)事情・物語をも想起させる。そして何より、三句目の字余り「リアシッカンノ」や結句の「サン」あたりに特に感じられる、S音と促音・撥音を中心とした韻律の鋭さ。そのような特徴の上でまた歌の内部からじわじわとしみ出してくる「リア王」の物語がある。最終的には、映像と韻律と物語が交差するところに立ち上がる凛とした緊張感に飲み込まれてしまうような、そういう感じを僕はもった。たいへん印象深い一連だった。

 

紙ひこうきをひらけばそこに記されてnを導くための数式
黒海の地図刷られいるキャリー・ケースを湖へ沈めにゆくごとく持つ
はつ雪のゆうべを布の鞄よりケルトの神の息づかい洩れ
その先は氷の海につづく音 夜半白鍵をのぼりつめれば
ヘラジカの幽霊に遇う短編の夜霧のはれるあたりを訳す

/「紙上の塔」