さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく

穂村弘『水中翼船炎上中』(講談社:2018年)


 
穂村弘第一歌集『シンジケート』に収められた〈桟橋で愛し合っても構わない頑固な汚れにザブがあるから〉の頭韻に気がついたのは、この歌を単独でみたときからははるか遅れて、斉藤斎藤による本歌取り〈加護亜依と愛し合っても構わないわたしにはその価値があるから〉がその頭韻まで細かく踏襲している執拗さに驚いてのことだった。ロマンや青春性に覆われた「愛」が隠ぺいする「わたしの価値」の極端な肥大化への批評だと思われるこの本歌取りの本歌のなぞりかたはだいぶ細かく、「〇〇しても構わない、●●だから」という構文を踏まえているだけでなく、下句が広告の引用であること、そして句ごとどころか文節ごとに「a」の音を配置するところも同じである。ちょっとこわい。そして、この本歌取りによってあらためて気づかされたのは、「a」音の配置から一ヶ所だけはずれる「汚れ」がまるで汚れそのもののように一首に浮かびあがることだった。これは最初から作者の意図によってパズル的に配されたものではなく、あくまで偶然起こったものの、定型に乗せられたとたんに落ちなくなってしまったシミのようなものなのではないかと思う。穂村弘の歌を読んでいるとときどきこういう発見がある。圧倒的なイメージ喚起力によってそれが言葉であることを忘れそうにすらなることが多いけれど、実際には韻文であることへの爪の食い込みがつよい。
掲出歌の下句には句またがりが用いられている。つまり、これが短歌である、という前提だけが「うしがこなみる/くになってゆく」という不自然な場所に線を引かせる。この補助線が気づかせるのは、ひそかな頭韻と脚韻だ。下二句は上下が「u」の音に挟まれていることになる。ついでに「うし」と「みる」、「くに」と「ゆく」は母音がほとんどシンメトリーで(「ゆく」の「ゆ」を除く)、まるで四、五句目をそれぞれ囲む括弧のようである。意味の上で、たとえば「うしが/こなみるくになってゆく」「うしがこなみるくに/なってゆく」などの切りかたをした場合には隠されているほとんど幾何学模様のようなおしゃれな音の遊びがこの歌にはある。同じ母音の畳みかけによって韻が無効化されているとも、あるいは逆に韻のかたまりだともいえるような上句との対比も鮮やか。しかし、これらの凝った作りはあくまで隠されていて、句またがりという概念抜きには発見もされないだろう。短歌定型に入れられたがゆえに定型に添って結晶したかのような姿の歌である。
『水中翼船炎上中』は老いについての歌集だ。掲出歌もまたそのテーマのもとにある。搾乳や製造過程を経ずに牛がじかに粉ミルクになるという発想はどこかコミカルで幼いものでもあるけれど、滅びの予感を幾重にも巻き込んでいる。たとえば砂時計の砂が落ちていく様子や、身体が崩れて灰になるイメージなどを連想させる。しかし本来は「粉ミルク」自体は子どもを育てるためのもの、未来へ向いているものである。子どもへ、次世代へ、未来が手渡されていく。その輝かしいイメージのネガのように、その未来がよそからよそへ自分の頭ごしに手渡されていくことへの禍々しい無力感が掲出歌には満ちている。この歌のあまりに徹底した無力さは読者を脱力させ、笑わせさえするだろう。ひとしきり風が吹いたあとにはこの歌のなかには骨だけになった牛が立ってそうだし、その牛は作者自身なのだと思う。そして、この歌の下句の句またがりが意味を剥がした上で一首のなかに幻視させる「短歌の骨格」の美しさ、妖しさを、老い=肉体が朽ちることが徐々に露出させていく骨に重ねて読むのは夢をみすぎだろうか。たぶんみすぎなのだろう。“間違った夢が燃えつづけている”