魚村 晋太郎


指半分出る手袋をして会えば指半分だけが見つめられたり

前田康子『色水』(2006年)

短歌というのは饒舌な器である。
口数が多い、という意味ではない。言葉少なに語られる、そのひとつひとつの言葉が、実に様様なことを読み手に語りはじめる。
余白の饒舌さ、と言ってもよい。

指の第二関節あたりから先の部分がなくて、指先が外に出るデザインの手袋がある。そんな手袋をして人に会ったら、相手は珍しそうにその指先ばかり見ていた。
ただそれだけのこと、だが、一首には相聞、つまり恋の雰囲気がある。
そうでなければ、会えば、とは言わない。手袋をしていたら、とか、しておれば、とか、他にも言いようはあるのだから。

歌集や、歌集以外から知りうる人間関係を一旦措いて、恋のはじめの頃の歌としてまず読んでみる。
折角二人で会うのだから、主人公は手袋以外のところに、さりげないお洒落をして来たに違いない。或いは、言葉で伝えられない気持ちを、眼差しにこめて投げかけているのかも知れない。なのに相手は、ろくに自分の顔も見ないで、指先ばかりを見ている。そのことが主人公にはもどかしく、さびしい。
でも、なんで手袋なんだろう。ちょっとしたデートだって、手袋はじきにはずしそうな気がする。たとえ、指先が出る手袋であっても。

そんなことが気になりだすと、この一首は、長いつきあいの二人を想定して読んだ方が深い、ように思えてきた。
久しぶりに会った恋人同士、とか、久しぶりに子供たちぬきで外出する夫婦。これから手袋をはずして、食事をしたり、どこかに行ったり、或いは同じ家に帰ったりするのかも知れない。
でも、このひとときは、ひとりの女性として、かけがえのない他者として、自分をみつめてほしい、と主人公は思う。
相手の視線に、主人公は物足りなさを感じているが、こうした気持ちになれるのも幸福な証拠なのだ、と少し羨ましくなる。相手の男性にとっても、そういう不満を抱かれているうちが花、だということは、おそらく言うまでもない。