横山未来子/視野の端(は)に君みとめつつ振り向けぬわれを真冬の海星と思ふ

横山未来子第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(1998年・短歌研究社)


 

「海星(かいせい)」はカトリック教会では聖母マリアのことを指すようだけれど、自身のことを「聖母マリアと思う」とはさすがに言わないと思うから、この歌では言語の感覚としてそうしたイメージも含みつつ、基本的にはあの★(星形)の元祖「ヒトデ」のことだと読むほうが自然な気がする。

 

好きな人が自分の周囲の空間にいるときのはりつめた感覚が、ちゃんと目で確認しなくても視野の端に君の存在を感じている。「振り向けぬ」というところがとても大事で「振り向かぬ」ではない。振り向けぬまま、けれども全神経は君に注がれる。その極度の緊張が周囲の時空を歪め、たとえば自分の目の前でしゃべっている人の声も急に遠のいて、「振り向けぬ」つまり動けなくなるような圧が身体にかかって、自分一人が深海の中にいるような感覚に陥る。「海星」のようにそこにべったりと貼りついてしまうのだ。その瞬間、「われを真冬の海星と思ふ」という、急に君さえが視野からはずれ、透徹した孤の心境に至る。これがたとえば、「深海のヒトデと思ふ」などであれば、実感に対しベタな比喩(といっても海星は比喩として特殊には違いないが)となるけれど、「真冬」には詩的飛躍があり、現実の自分の思い通りにいかない心や体も、「君」さえをも切り離した言葉の世界を導く。まだ、うまく書けないのだが、横山未来子の第一歌集の頃の歌というのは、この現実や実感に対する比喩が、一方で言葉の世界への憧れ、詩的で潔癖な精神世界に向かっていて、つまり比喩のあり方、バランスがとても微妙で複雑なところにあると思う。「真冬の海星」はどこか控えめでありながら、不思議な絶対性があるのだ。そして、凍てついたヒトデは、ひとつの存在の願いとしての実感を持つように思うのだ。