花山周子


吉田恭大/朝刊が濡れないように包まれて届く世界の明日までが雨

吉田恭大歌集『光と私語』(2019年・いぬのせなか座)

※「吉」は土と口。


 

私がはじめてジブリの映画を見たのは小学校三年生のときだった。友達の家の居間に下りていくと、テレビにはアニメの小さな子供が家の階段をのぼるシーンが映っていた。その脚の動きを、大人たち(友だちのお母さんと誰か)が「この動きが凄いんだよねえ、ほら、ほら、見て、この動き、子供の脚の動きをよく見てるよねえ、足の親指のこの…」と言っているのを聞きながら私は傍で体育座りして、その脚の動きをじっと見ていた。それが『となりのトトロ』だったことはだいぶあとになってわかったんだけど、今でも、あの薄暗い階段を這い上る子供の後ろ姿のカエルのような脚、それが凄いと言っていた大人たちの批評を強烈に覚えている。

 

宮崎駿のディテール描写というのはシーンにひとつひとつ重石を与える。少しデフォルメされた素朴な線が作り出す質感のほうから現実には存在しない世界の現場を連れてくる。大きな木が風に動くとき、風の重さ、木の重さ、それぞれの重さが空間を押し出してくる。現実世界とは明らかに違う人の描いた線を画面に残しながら、その線こそが現実世界を抽出し描き出すファンタジーの世界はとてもリアルなのだ。

 

リアリティやディテールというものはたぶん多かれ少なかれ、そういう重さ、負荷を伴っているもので、その「負荷」が観客や読者の五感に働きかける「喩」なのだ。だから、表現というものの根本的な「喩」の一つは一般には「リアリティ」と呼ばれるところの「負荷」という「喩」であると私は思っている。短歌でもたぶん同じことが言えると思う。

 

なんでこんなことを書いているかというと、昨日、新海誠の最新作『天気の子』を見てきたからだ。この映画では、雨のディテール描写で徹底したリアルが追求されている。「こんなに雨の表現を追求しているアニメは他にない」「水の表現が徹底してリアルですね。傘や窓にあたる雨や、水たまりに降る雨のしぶきがものすごく緻密に描かれています」――ライブドアニュース「映画『天気の子』 新海誠監督が細部までこだわった雨の描写」というように、雨粒一つ一つの動きや質感までもが追求され、それは解像度が高いというより、私たちがふだん実際に見ているものの視覚的なリアルがある。このリアルは「表現」というものの手あかが見えないことで実現されているとも言えるだろう。だから「重さ」を纏わない。製作者のこだわりや観察といったものが観客との間に作り出す作品としての「負荷」がないのだ。そして、そういう負荷が感じさせる作品の背後の連続する時間や思考がない。世界を構成することのないシーンだけが連続する。そういうシーンの在り方は刹那的であり、だから、ただ空が晴れる、というだけで心を打たれる。涙が流れてしまう。この映画ではシーンこそがクライマックスなのであり、リアルを追求しながらリアルという比重がかからず、どこまでも軽くシーンが流れ、展開されるシーンから次々にクライマックスが発生する。
おそらくここでは、「リアル」というものが大きく変質している。

 

それで、本当は『光と私語』については前回で一応完結させるつもりだったのだけど、この「リアルの変質」という観点からも考えてみたくなってしまったのだ。

 

朝刊が濡れないように包まれて届く世界の明日までが雨

 

この歌について堂園昌彦が栞で次のように書いている。

 

(略)新聞配達の人が朝刊を包むことと、天気予報で明日まで雨とわかること、という二つの人為的な要素が省略されることで、まるで私たちの生活のための便利なシステムが、人間を介在しない自然現象として起きているような、そんな奇妙な感覚を抱かせる。そして、そのように捉えた世界はどことなくノスタルジックで、魅力的な相貌を帯びてくるのだ。
吉田くんの短歌の特異なところは、通常の短歌が細部の描写に没入していくのとは反対に、ちょうどカメラの解像度をわざと下げるようにディテールをあえて無視しているところだと思う。そのことが逆に、物事の構造自体に潜んでいる、奇妙さや寂しさや抒情をあぶりだしている。

 

ここ、表現における「リアル」を考える上でかなり大事な指摘だと思う。そして、堂園がここで感知していることと、私が感じていることはたぶん全く同じなのだが、「リアルの変質」という観点に注目するとき、「ちょうどカメラの解像度をわざと下げるようにディテールをあえて無視している」という点についてはもう少し踏み込んだ考察が必要になってくると思う。

 

ここではディテールそのものが無視されているのではなく、たとえば堂園自身が指摘しているように「人為的な要素が省略されている」。つまり物事の因果関係のほうが省略されている。さらに言えば「省略」ではなく「抹消」されている。物事を連結させる何か、人為や時間や思考が「抹消」されていしまっているのだ。その結果としてディテールが無視されているような印象を与える。この「印象」というところに、「ディテール」とか「リアル」というものを人がどこから感受しているか、という非常に面白い問題が潜んでいると思う。

 

火葬場に細みづ白くにごり来も向うにひとが米を磨ぎたれば 齋藤茂吉

 

この歌では、描写される水は「向うにひとが米を磨ぎたれば」という人為的な因果関係によってがっちりと連結されている。さらにその因果関係は「主観」によって倒置される。つまりここでは、物事の因果関係という「負荷」とともに、認識の順序=「主観」が生む「倒置」という「デフォルメ」によって二重の「負荷」がかかる。その「重さ」が結果として堂園が言うように、「細部の描写に没入していく」ように見えるのだ。

 

一般に表現においてはディテール=細部が「リアル」を生むのだとつい思ってしまうところがあるけれど、実際には表現の「リアル」は現実を省略する過程が生み出す「デフォルメ」の方にあるのである。これはもちろん全ての「表現のリアル」に通用する話ではないのだが、特に短歌のような短詩形においては、省略は必須であり、こうした「リアル」が殊に有効になる。だからたとえばアララギの場合、写実の追求が結果的に、この省略からの「デフォルメ」という「リアル」に行きつくのは必然であり、「写実」というものの大いなる矛盾にぶつかることにもなるのだ。なぜなら、ここでの「リアル」こそが現実世界に対する表現というアクション、人為だからだ。それは現実世界の細部が「無視」されることでここに具現化されているのである(これ、ほんとは「無視」しているとは言い切りたくないんだけど、ここではとりあえず論もデフォルメする)。一方で、吉田の歌では、

 

朝刊が濡れないように包まれて届く世界の明日までが雨

 

「朝刊が濡れないように包まれて」という細部が描かれる。「明日までが雨」という限定も気象予報の観点から言えば細部といえる。「世界」だけがデカいわけだけど、ともかく、ここにはそれなりに細部は描かれているにも拘わらず、それがそう見えないのは、「主観」という「没入」がないからだ。「デフォルメ」がない。ここでは、「新聞配達の人が朝刊を包むことと、天気予報で明日まで雨とわかること、という二つの人為的な要素」が抹消されているだけでなく、表現における人為的な要素も見えなくなっている。そして、「届く世界の明日までは雨」という「雨」で歌が終わる。だから、この世界にはまるで雨だけが能動性を持っている唯一のもののように見えてくる。ここに残されているのはだから人為を介在しない「シーン」なのだ。

 

このような世界の見え方は確かに現代の都市空間のひとつの「リアル」でもあると思う。現代社会のシステムからは既に多くの人為的な要素が省略され、切符を切ってくれる人も、お店でおまけしてくれる人もいなくなった。そして、そういう、「人」が介在しない「システム」のほうが、堂園が言うところの「奇妙さや寂しさや抒情」をインストールしはじめているとしたら。もちろん、そんなふうに世界を見るのもやはり「人」であるのだが、そういう世界の見方は能動性を世界のほうに譲っている。たぶん吉田の歌の場合は、短歌定型が、「抒情」をインストールしている。インストールしているように見える。だからここでは、「負荷」がないことこそが、「リアル」を感じさせる表現の「喩」として機能している。そういう「リアルの変質」が起こっているように思うのだ。