生沼 義朗


奥山善昭/鉛筆を削り何か待つてゐる光傾くまでのことにて

奥山善昭『冬の薔薇』(短歌21世紀・2013年)


 

前回に引き続き、奥山善昭の歌を取り上げたい。奥山は2012(平成24)年7月27日に69歳で亡くなった。翌年に出された第二歌集『冬の薔薇』(短歌21世紀)は遺歌集でもあり、1998(平成10)年から亡くなるまでの15年間の作品1133首が編年体ですべて収載されている。歌の採録、編集、装幀などは大河原惇行ら「短歌21世紀」のメンバーが行った。1頁10首組の128頁、四六判並製ビニールカバー装の瀟洒な一冊で仲間の手作りの書籍の印象がある。

 

 

ビルディングの裏側に生活の汚れ見え目黒川朝の潮のぼり来る
朝明けを朱の色となる雲の下淡き浅葱の空のひろがり
白々と切口乾く孟宗竹ここに束ねられ影を作れり
光射す石あたたかき感触が盃置くときよみがへりくる

 

 

第1歌集『環流』から引き続き、眼の前の景色を描いた作品の確かさは言うまでもない。長年の修練の賜物である。1首目の「生活の汚れ」は一見大掴みだが、ここを具体的に描写するとかえって一首に描かれる景色が小さくなることがある。2首目は朱色と浅葱色の対比があざやかで、何と言うことはない景色だがしみじみとした味わいがある。3首目は伐採された孟宗竹が束ねられていることを題材にした歌自体がめずらしい。結句「影を作れり」は見たそのままだろうが、作者の感情へ移行するぎりぎりで踏みとどまっている表現でもある。4首目は自宅で晩酌をしているのか宴席かはわからないが、写生はいのちを写すとするアララギの考え方からすればまさにその通りの歌で、上句で過去の情景を描き、下句で現在の景色と感覚に重ねあわせる。その手際があざやかである。

 

 

去年の達磨捧げて燃ゆる火の中に投げ入れて祈る傍らにゐき
見おろせば美しく枯れゆく鶏頭あり辛うじて書く葉書三枚
楓一木くれなゐ薄れ若葉となるこの平凡が窓ちかくあり
ハマボウの紫の花をかなしみて立ち止まる人に並びてわれは
中心を外せばよいのだやはらかき絨毯を踏みて一人居りたり

 

 

一方で、純粋な叙景歌は『冬の薔薇』では数が少なく、今挙げたようなタイプの歌が増えてくる。1首目の「傍ら」にいるのが誰かははっきり描かれていないが、家族と読んだ。人の姿を端的に描く奥に自身の感情が投影されている。これも写生歌の一環だが、自然ではなく人間をありありと描いたところに生活のダイナミズムが出ている。

 

2首目は鶏頭が枯れてゆくことと葉書を三枚書いたことに直接の因果関係はないが、「辛うじて」にネガティブな感情やある程度以上差し迫った事情が類推できる。三枚に妙な実感とリアリティがある。「見おろせば美しく枯れゆく」も対比を際立たせている。

 

3首目も光景を簡潔に描きながら特に下句で自分の感情や見解を差し出している。上句は純然たる叙景歌だが、四句でいきなり「この平凡」が出てくる。評価は別れるところだが、多くの読者は否定的な意見を持つかもしれない。一般に歌に主観的な描写が入るとデッサンの精度はどうしても鈍るからだ。また下句自体、作者が自分自身で結論を出しているとも読める。作者自身が歌の中で結論を出すと、歌を陳腐に見せたり歌のそのものが色褪せることにつながりやすい。確かに自己の感情や思考に一首まるまる終始している歌も少なくなく、そうした歌はあまり採れなかった。

 

4首目の「ハマボウ」は、「紫の花」なのでアオイ科のそれではなく、通常ハマゴウと呼ばれ別名ハマボウとかハマハイなどと呼ばれるシソ科の海浜植物のことだろう。「かなしみて」は漢字で書けば「愛しみて」となる。海岸かどこかでハマボウの紫色の花に気がついた。他にも立ち止まっている人がおり、自分も並んで花を見ているだけの内容だが、叙景に心情が上手く被さり相乗効果を生んでいる。

 

5首目はホテルか宴会場だろうか。ふかふかの絨緞は確かに歩きにくい。それゆえの「中心を外せばよいのだ」だろうと読んだが、初句二句がここから始まることに驚く。「一人居りたり」も実は重要な設定で、一人でないとなかなかこんなことを思う余裕はない。そして読み終えたとき、この歌自体が一種の暗喩なのではないかと思えてくる。

 

こうした歌を読んでゆくと、どの歌にもアララギの写生の方法論は基盤として根底に据えられているものの、奥山の歌の位相が明確に動いていることがわかってくる。

 

掲出歌は純粋な叙景歌ではない。日が暮れようとするまでの時間、鉛筆を削りながら何者かを待つ。そのやや漠然とした時間と期待を簡潔に描く。短歌を詠むことを詠むメタ短歌的な要素もあるが、自分自身の心情を描くことに歌の力点が置かれている。ただし心情の詳細は描かれずに読者に委ねられる。その辺りの間合いも心得ている。「何か待つてゐる」は思わせぶり、ここを何かと言わずに表現するのが文芸、という向きもあろうが、作者自身にもうまく把握できていないゆえの「何か」なのだ。これは自身の心情を描く方法論とも合致している。

 

 

目標のない仕事だから楽しいといひましし人を今宵思ふなり
派遣会社に身を移したる古河君を思ふ朝のしばしの時を
金額を度外視されてここにあり六十五歳今年このこと
死刑すら止むなしと思ふ感情を扱ひかねて午後はをりにき
原油高騰の朝のニュースを話題とするこの経営者も若くはあらず
空港の灯が映る海に沿ふ道にて筑紫哲也の訃報を聞きぬ

 

 

仕事の歌も多く見られ、引き続き運転手の仕事をしていることがわかる。どの歌も歌意は明解で、仕事の歌には特に奥山を取りまく現状が率直に滲んでいて身につまされるものがあった。また、時事の出来事を取りこんだ歌も随所にあり、感情も含めて多くを語らないが、一首をものした動機と心の動いた形跡が歌からはっきりと感じられる。

 

話が逸れるが、『冬の薔薇』一冊を通読しての感想は、特に仲間に対する記録性からすれば歌をすべて収載した意味はあったろうが、一冊の書籍として考えたとき入れない方がいいのではと思われる歌があったことは損だと思うし、疑問符はやはりつけておく。

 

率直に言って自分は『冬の薔薇』よりも『環流』の方が評価が高かったが、奥山が自身の歌を動かそうと試行錯誤したのはよく理解できる。その意味で『冬の薔薇』は過渡期の歌集という印象で、奥山の作品世界がさらにどのように完成され得たかを考えると、『冬の薔薇』が遺歌集であることが残念だ。