平岡直子/きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話

平岡直子「東京に素直」(2016年・「たべるのがおそい」創刊号)


顔の中で一番広い面積を占めているのは額と頬であると思うのだが、そのどちらかを選ぶとして、ここでは頬が選ばれている。額であれば脳に一番近い場所で皮膚のすぐ下には頭蓋骨がある硬質な面であるから、「きみの額テレビみたいね」だと、いかにもアンドロイド的に君の思考がそこに映し出されているような感じになる。けれども「頬」というのはあらゆる面できみの思考からは距離が置かれる。内側がやわらかく不思議に広い皮膚の表面は君の思考をよそに映像を流すスクリーンなのだ。そしてこの頬は今、ブラウン管テレビのようにきみの内側から発光しているように見えているのではないだろうか。

 

歌のなかに散りばめられた言葉たちは不思議に接続していき、「20世紀の思い出話」という過去の時間が身体の頬を通して発光しているような、それがきみの生命の唯一の根拠でもあるような気がしてくる。さらにはこの頬はどこにも所属していない。この世界のきみにさえも所属しない青白い発光体としてここにある。「20世紀が思い出話」になるこの場所は全てが失われた場所のような気がする。

 

内出血きれいでとても冷たいね宝石と鳥わからないのね

「外出」創刊号

 

この歌も、身体の捉え方が似ているなあと思う。皮膚の内側で出血する「内出血」はときに、鮮やかな青や赤紫やエメラルドを発色する。その美しさも、宝石の美しさも、鳥という小さな生き物の美しさもその内部から色彩や命が透けて見えるような、内部から表皮への美の圧を伴って存在している。

 

この「わからないのね」は「宝石か鳥か」的な、「宝石と鳥」の違いが「わからないのね」という意味としてなんとなく取っているけれど、厳密にはわからないし、ここでは理が通り過ぎないぎりぎりの「宝石と鳥」が寧ろイメージそのものを接続していくように思う。

 

二つの歌に共通するのは歌の中の「テレビ」、「頬」、「内出血」、「宝石」、「鳥」という名詞の間に置かれる「みたいね」や「きれいでとても冷たいね」、「わからないのね」という口語にある。これらの口語はほとんど凍結するほど冷たく硬質で、たとえば「きみの頬テレビみたいね」はきみの頬と場を共有することの連帯感はあるんだけども、一方で誰にも語りかけていない。きみの頬がどこにも所属していないように「テレビみたいね」もどこにも所属しない言語としてここに置かれていると感じる。

 

それは夢のなかに似ている。夢は、自分がそこに所属しているようで所属していない場所である。平岡の歌というのは、日中、無意識のうちに通過し、その日の夜の夢のなかで拡大されるような意識のつながりなのではないだろうかと思うときがある。その意識の連なりは夢のなかでは際やかな理論を展開していたりする。その理論は起きてみれば再現することはとても難しいし、再現したところで夢で握っていた確信はもうどこにもない。けれども平岡の歌ではなぜだか、そのような確信が生き延びている。

 

今日の二首には生命に対するある感度が働いているように私には思われるのだけれど、それはふだん現実空間で私たちが目にしているような生命感ではなくて、何かが剥奪されたかなしい美しさがあって、そこに平岡の詩の純度を見るのである。