生沼 義朗


さいかち真/お前なァ、携帯電話(けいたい)の着メロに君が代を使ってそんなにうれしいか

さいかち真『裸の日曜日』(雁書館・2002年)


 

前回に引き続き、学校教師の仕事の歌を取り上げる。さいかち真(さいかち・しん)は「未来」編集委員で、『裸の日曜日』は第2歌集。さいかちは公立高校の国語科教師である。

 

掲出歌の情景自体は解釈に悩むものではない。ある生徒の携帯電話の着信音が君が代だという事柄を簡潔に描く。こんなことをするのはおそらく男子生徒だろう。生徒に悪気や含意はない。単に意味もなくうれしいというか高揚しているだけだ。思春期の男子特有の始末に負えない無邪気さとある種の頭の悪さがよく表れている。「お前なァ」という1対1の呼びかけから詠い起こしているところが効果的で、教師である作者の率直なぼやきが情景にかぶさってくる。

 

『裸の日曜日』は2章立てで、掲出歌は歌集後半の第Ⅱ部に入っている。第Ⅱ部は2001(平成13)年前後の作品が多いとあとがきにあるが、掲出歌が1999(平成11)年にいわゆる国旗国歌法が公布施行された後の作品であることは押さえておく必要がある。背景には、1996(平成8)年頃から文部省(当時)の指導で公立学校では日の丸の掲揚と君が代の斉唱が事実上義務づけられ、社会問題化していたことがある。推測だが、この生徒にそこまでの知識や意識があったとはちょっと思えない。だからこそ教師である作者の相手への呆れと苛立ちは深くまた複雑なものがある。

 

韻律面を見ると、正直どのように切って読めばいいか迷う。たとえば「携帯電話」にルビを振らないで、「お前なァ、携帯電話の着メロを君が代にしてそんなうれしいか」とすれば58578で収まるが、さいかちがそうしなかったのは、定型にきっちり収めた際に立ち上がる様式美をこの歌に関しては回避したからだろう。それよりは、この出来事によって惹起された率直な感情をそのままの言葉のリズムで述べることを優先したのだ。

 

 

労働が人を造る、か……。連日のアルバイト疲れに教室は荒る
親どもがみな顔を亡くせるごとき世の行くあてもなき少年少女
日本史の試験のさなか幾度も床に唾吐く姿を憎む
坂野信彦の韻律論を楽しみし翌日は拾ふトイレの煙草
奇怪なる着こなしにして理に適ふミニスカートの下の赤きジャージは
二百四十名入学、退学三十三、原級留置(りうち)二十八

 

『裸の日曜日』は、自身の子供や家族を詠んだ歌や社会性の強い歌にもすぐれた歌が多いのだが、今回はあえて生徒や学校の現場を描いた歌を何首か引いた。いずれも生徒という一人一人の人物に真向かうことであくまで人物を描こうとする強い方法論を感じる。

 

あとがきでさいかちは、歌集の歌が製作された時期は、「仕事で向きあっていた課題集中校の少年少女たちからは、ひりひりするようなことばを毎日あびせかけられていた。その中で、自己の窮状を訴えるのにとどまらずに、何とか批評のことばを紡ぎ出したいと思い続けた」と吐露している。課題集中校とはいわゆる教育困難校のことだ。人と人がぶつかりあい、傷つき傷つけられながら対峙するなかで描かれる人物像がそれぞれの歌にありありと息づいている。

 

あたりまえの話だが生徒も人間であり、教師もまた人間である。さいかちに限らないが、教師が教師生活のなかで教育とは何か、ひいては教師たる自分はいったい何者なのかを問うことは一度や二度ではないだろう。それを考えれば歌が内省に向かっても何ら不思議はないが、さいかちは人の営みを通して人物そのものを描く。思うところや言いたいことはあるだろうが、声高には言わずに人物や情景の背後に潜らせる。理由は、少なくともこの歌集では社会の事象や流れを捉えて提示することを優先し、個人の思いや感想を極力表に出さないところから詩を立ち上げようとしたと自分には見える。そしてそこにさいかちの矜恃を見るのである。