加賀要子/スクリーンを外し観客席を運び去りし劇場空間を人らと清む

加賀要子『2019年版 現代万葉集』(NHK出版・2019年)


 

前回に引き続き、2019年版の『現代万葉集』から仕事の歌を取り上げる。掲出歌の作者加賀要子は福井県在住で、「新アララギ」に所属している。

 

 

映画ビルの跡の雪積む空地に立つわれの思いは告ぐべくもなし
地方都市の劇場の閉館もいくらかはニュースとなるのか寂しがられて
スクリーンを外し観客席を運び去りし劇場空間を人らと清む

 

 

今回も掲載されていた加賀の作品3首すべてを順番通り引用した。「映画ビル」や「劇場」という言葉から舞台は映画館であり、「空地に立つわれの思いは告ぐべくもなし」「人らと清む」などの表現から経営に携わっていたのではないかと思われる。

 

3首を読んでまず気が付くのは、状況の珍しさである。時系列で言えば3首目⇒1首目⇒2首目もしくは3首目⇒2首目⇒1首目となるのだろうが、読者に対する説明の意味では〈映画ビル・・・〉の歌を1首目に配置することで作者の状況が一読して了解される。「映画ビル」は映画館の入ったビルという意味だけでなく、おそらく地元の人からこのように呼ばれていたのだろうことも推測できる。老朽化か経済的な原因ゆえか理由まではわからないが、映画ビルが取り壊された。今では雪かきの集積場になってしまった跡地に立って、往年の記憶に想いを馳せる。「われの思いは告ぐべくもなし」は措辞としてはナマなのだが、こうとしか言いようのない作者の想いがダイレクトに伝わってくる。セオリーから言えば具体的な思い出などの事物を入れた方がよいのだが、作者の感情をそのまま述べることで強い意志と思い入れが伝わり、一種の自己紹介の機能も果たす。この歌が1首目に置かれた効果は絶妙である。

 

2首目も1首目を受けてこの位置に置かれている。テレビか新聞かははっきりしないが、映画館の閉館が地元のちょっとしたニュースとして取り上げられた。「いくらかは」に当事者としての驚きが表され、「寂しがられて」に今まで何とか経営してきた矜恃と若干の何を今さらとという気持ち、そして他者の感じている寂しさを共有している作者の姿が浮かんでくる。

 

掲出歌は、ビルの取り壊しに先立って映画館の撤収作業を行っているのだろう。「スクリーンを外し」や「観客席を運び去り」といった表現は短歌ではもちろん実際にもあまり見ることはないが、作者もおそらく初めての経験だったのではないか。寂しさなどの感情がないわけではもちろんないが、あえて淡々とした表現で描かれるのは、粛々と作業を進めなければならないからだ。その複雑な心情が意味内容の深刻さと淡々とした表現の狭間に漂っている。「人ら」はバイトかボランティアかまでははっきりしないが、経営側としてお手伝いをお願いしたニュアンスが伝わる。「清む」も、今までやってこられたことへの感謝の念が率直に滲み、読者にさわやかな印象を残す。

 

『現代万葉集』における仕事の歌は32名の96首で、全体の1.7%に過ぎない。仕事が生活に占める比重を考えれば、少々さみしい数字である。もちろんこの数字の背後には、短歌界全体が抱える高齢化の問題も横たわる。仕事の歌はまだまだ開拓可能な曠野であり、いくらでも個性を出せるフィールドだ。

 

10月17日に和嶋勝利の歌を取り上げたときに、一般的に仕事の歌は総体的概念的に業務を描くか、業務の具体ではなく背景の景色や人物を詠むことで抒情を立ち上げて職業人像を描くか、仕事に関わる人物を描くことで仕事の特色を浮かび上がらせる人事詠のいずれかに概ね大別できる旨を書いたが、コンプライアンスや個人情報保護の意識が高まっている現在、昔のように仕事で起こったことをそのまま歌にすることは難しい。

 

加賀要子も前回の穂積昇も仕事での出来事や思いを忠実に歌にし、そのことで自身の作品世界をまぎれもなく獲得している。アララギが構築した方法論の賜物であるが、こうした歌が減ってきた、また減らざるを得ない現状に各作者が思いを馳せる必要がある。同時に、アララギの方法論を時代の変化に応じてどのようにチューニングあるいは代替案を構築すればよいのかも議論されていい。