花山 周子


森尻理恵/陽に疎き庭でも母は鉢植えをあちこち動かし花を咲かせる

森尻理恵第三歌集『虹の表紙』(2019年・青磁社)


 

森尻理恵の歌集は読まされる。その最も大きな理由は、その家庭が育んできた生活信条、森尻家の心の在り方、家族の質感のようなものが一冊を通して時間や空間を作り出しているからだ。ふだん、学校や職場に出てきて互いに顔を合わせているときには各家庭の匂いみたいなものはあまりわからない。各々が社会一般になるべくチューニングして集まっているのが現代社会であるし、また現代では家庭の中も単一化しつつあるから、個々の家庭の匂いみたいなものが失われつつもある。歌集においても、作品化するにあたって家庭臭みたいなものは案外削られてしまっていることが多いのだ。

 

歌でしかものは言えない 誰も彼も言葉の裏には生活がある 『虹の表紙』

 

こんな歌があって、印象的だった。ここには一つの視点が息づいていると思う。「言葉の裏には生活がある」というのは実際にそうで、生活があるからふだんは言えない言葉、短歌でしか言えない言葉というのは誰もがあると思うけれど、ここでは、社会に対しての家庭や個人のマイノリティー性が見つめられてもいると思うのだ。

 

鉛筆を毎日失くす子を叱る盗られているなら嫌だと言えと 『S坂』

 

鉛筆を失くすことを叱っているのではない。「毎日失くす」ことの異常さを感知した上で、「嫌だと言え」と叱っているのだ。こうした親の対応は千差万別でもあって、気づかない親もいれば、先生に相談する親、子供に寄り添う親、静観する親、様々であって何が正しいかなんてわからないけれど、「嫌だと言え」と叱るところには、社会に子供を出すことに対する腹を括った信条が感じられる。それは文体にも強く出ている。「鉛筆を毎日失くす子を叱る」と先に言ってから「盗られているなら嫌だと言えと」と、叱る理由を全て伝える。決して単純なところから発せられたのではない、いろんなものを見越した上での理由が告げられているのであり、自らの信条を子供に伝授すること、そのような家庭における一つの歴史が刻まれているのだ。

 

それはたとえば、〈うちの子にしては上出来マラソンが学年8位の賞状飾る〉の「うちの子」というような言い方に内在される一貫したモチーフであるのだ。「うちの子」という言い方は短歌作品では基本的にはNGワードだと思うんだけど、森尻理恵の歌集においては「うちの子」という主観、「うちの子にしては上出来」という目線、そういうものこそが歌集の核を成しているのであり、〈一つ辞めれば全てが崩れてしまうからと十六歳がまっすぐに言う〉〈親が見ても辛抱をかなり学んだと思えり成績を引き換えにして〉というように、「うちの子」にしっかりと受け渡されていくものもまた描かれていくのである。

 

こうした信条はまたそのまま外部にも向けられていて、

 

仕事だからうまくいかないこともある阪神井川がまた打たれたり 『S坂』

 

こうしたプロの野球選手にも地続きに援用される目線ともなるのだ。これは家庭信条というマイノリティー性が世間目線というマジョリティーに反転する瞬間でもあって、こういう部分には人間というものの怖さも潜んでいるんだけれど、そういうものが見えるのもまた森尻歌集の興味深さでもある。

 

人生の分岐はそれなりに越えてきた母の選びしジャケットを着て 『S坂』

紳士服の量販店に吊るされし無地の背広を二着買いやる 『虹の表紙』

 

母が選んでくれたジャケットを着て森尻さんは人生の大事な局面を越えてきた。そして自身もまた息子に背広を与える。母から自身にそして息子へ伝授されていくものがある。今日ここまであげてきたような歌は、秀歌として取り出すようなものではないけれど、こうした歌こそが森尻理恵の歌集空間を築いている。それは「うちの子」という目線のなかに続く一つのルーツなのであり、アイデンティティなのであり、「家族」というものの今は失いつつある本質がここにはあるのだと思う。

 

陽に疎き庭でも母は鉢植えをあちこち動かし花を咲かせる

 

最後に母の歌を紹介したい。路地などを歩いていると、軒先にこまごまときれいな花を咲かせている家がある。「鉢植えをあちこち動かし」という細やかな作業がそうした花を咲かせていることに思い及ぶのである。