生沼 義朗


住谷眞/あまたなる死刑と雨の影のこし平成最後の夏は終はりぬ

住谷 眞『遁世はベンツのやうに』(角川書店・2019年)


 

前々回の福島泰樹、前回の山中律雄をはじめ、臨済宗の僧侶である大下一真や天台宗の僧侶である杜澤光一郎、浄土真宗の僧侶である黒瀬珂瀾など僧籍を持つ歌人は幾人か挙げられる。神職にある歌人も「日本歌人」の長岡千尋(ながおか・せんじ)や「短歌人」の足立尚計(あだち・しょうけい)、亡くなった「飛聲」の西村尚などが思い浮かぶ。だがキリスト教の信徒は春日いづみ、林あまり、横山未来子、堀田季何、あるいは晩年に棄教した雨宮雅子などが知られるところだが、伝道者である神父や牧師となるとほとんど思い浮かばない。

 

掲出歌の作者住谷眞(すみたに・まこと)は1957(昭和32)年香川県高松市生まれ。プロテスタントの牧師で、大学卒業と同時に世俗の道を去り、伝道者の道に進んだ。2001(平成13)年に「ナイル」に入会して作歌を始めている。歌集題は

 

 

遁世がベンツのやうに駆ける日は徒然草をかばんに入れる

 

 

の歌に拠り、理由を「若い時から世を逃れたいという思いが強く、その遁世への疾走感をあの加速の強いベンツに譬えた」とあとがきで述べている。ここには、ベンツの堅牢で高性能というイメージも重ねられている。下句の「徒然草をかばんに入れる」も上句との対比が明確で、「ベンツ」と「徒然草」の取り合わせにも妙味がありかつ説得力がある。

 

掲出歌は、意味内容からして昨年の夏に作られたものだろう。時事を題材にしているが決して事柄を批判する趣旨のものではない。「あまたなる死刑」は、オウム真理教の一連の事件で死刑が宣告された13名が、昨年の7月6日と7月26日にそれぞれ死刑を執行されたことを指すと思われる。「あまたなる死刑」と「雨の影」が作者のなかで併存して残されるとき抒情が立ち上がり、同時に読者にも手渡される。そして平成最後の夏が終わることへの感慨へとつながってゆく。

 

「雨の影」はやや感傷が強いと見る向きもいるかもしれないが、牧師は人によっては教誨師を務める場合もあるだろう。住谷がそうした場に立ったことがあるかはともかく、歌にこめられた抒情には、死刑囚たちは本当に反省して覚悟の上で刑に処されたのか、あるいは人が人を裁き極刑を執行することの意味、さらには伝道者として既存宗教の限界を感じざるを得ないことなど、さまざまな思いが複雑に滲んでいる。そう考えると「雨の影」は決して感傷ではない。

 

 

イブの夜にクラッカー浴び逃げ惑ふ吾はビンラディンと同じ歳なり

 

 

キリスト教には詳しくないし、そもそも宗教に対して自分は格別の見識もあるわけではないが、クリスマスは教会で何らかの行事が行われるだろうことは想像がつく。周囲の人からクラッカーを向けられ、思わず周囲を逃げ惑った。逃げながらふと自分はオサマ・ビンラディンと同じ年に生まれたことを思い出した。自虐とまでは言えない感慨に味わいがあり、同時に自分はなぜこんなことをしているのかといえば、ひとえに伝道者としての使命ゆえでもある。何気ない歌だが、上句と下句の落差があることでここまで読ませる歌になっている。

 

 

人参はピーラーで削ぐ基督の毛脛剃るごとこころを込めて

 

 

何のために料理を作っているのかははっきりしないが、まるでキリストの毛脛を剃るかのように心をこめてニンジンの皮を剥く。家族か信徒かわからないが、誰か大切な人のために料理を作っていることは伝わってくる。同時に料理の素材を天からの恵みと受けとめて大事に扱う心も伝わってくる。「削ぐ」は「剥く」ではないかと思う向きもいるかもしれないが、「削ぐ」としたことでニンジンの最小限の部分のみを取り除きたい作者の意志が見て取れ、芸が細かい。「人参は」の「は」という限定にも料理に対する思い入れが垣間見える。

 

前回の山中は信仰が歌人としての視線や描写に完全に昇華され、信仰はむしろ通奏低音のように歌の背後に蔵われていた。住谷は眼前の景色を読んだ歌や回想の歌も多いものの、どちらかというと信仰がはっきりと見える歌のつくりになっている。どちらがより優れているのではなく作家性の問題だ。いずれにせよ、この世の中は人間で成り立っている。だからこそいろいろなことが起きるし、たとえ莫迦莫迦しくてもそれにつきあわなければならないことも多々ある。そうした一種の達観と諦観の上に、出方はかなり異なるものの山中の歌も住谷の歌も立脚している。そしてそれが歌の、そして一冊の味わいに結びついている。