ひつじたちは佇ちながら草をはむ 無言を古着のように羽織って

小林久美子『アンヌのいた部屋』(北冬舎:2019年)

 この歌に出会ったのは、十年以上も前だろうか。初出では一行に書き下されていた。定型の韻律から外れて、たゆたうように言葉が流れる。散文的な口調は、静かでありながら有無をいわせない運命のような、あるいは啓示のような響きがある。それははるかより届く声であり、すぐれて暗示的な言葉になって刻まれる。

 歌の全体をみると、生な感情は削がれ、簡素な言葉を丁寧に連接させながらきちんと三十一音に収まっている。それはつつましい理性の姿を思わせる。完全な口語を使いながら、冗漫にならない禁欲的な文体をどのようにしてこの作者は自分のものにしたのだろうか。どことなく寡黙な口語文体には、ゆったりとした思惟の時間があり清潔な布に触れたような慰謝がある。

 この歌に出会ってからずっと一行で暗唱していたが、このたび歌集に編纂されて、新しい姿で再会することになった。三行に分かち書きにされている。すると、当初のゆらめくような感覚は失われたが、言葉から編み出されるイメージにくっきりと輪郭が与えられたようで、鮮やかな詩に装いを変えた印象がある。この姿もまたいい。

 さて、歌を読んでみよう。羊たちが牧草地で草を食べている。おそらくたくさんの羊たちが穏やかな草地に散らかっている。羊たちは草を食べているので静かだ。俯きながら長く時間をかけて草を食む、その姿を「無言を古着のように羽織って」と比喩することで一息に羊たちから現実性が拭われて、まるで神からの使いのように神聖な存在に引き上げられる。しかも比喩はとてもナチュラルだ。羊の毛は汚れて毛羽立っているから古着にたとえるのも適切だし、さらに無言を古着と重ねる発想もすぐれて詩的だ。そして羊たちは天からの光を受けたように柔らかな静寂に包まれている。まるで一枚の小さなタブローを見ているようだ。

 思えばこの羊たちに現実的な属性は希薄である。どこにも存在しないことで普遍性を孕んだ羊たちには何の迷いもなく、深い安らぎが与えられている。そしてまた本源的な悲しみを古着のように羽織っているようにも思える。一枚の宗教画のように天上的なひかりに包まれている。シンプルな言葉が福音のようにも聞こえる。あるいは、救いとはこのような無心な羊の姿なのかもしれない。