ゆくバスの窓に見てゐる大阪の続きのごときベルリンの記憶

島田幸典  (短歌研究9月号 第76巻9号・2019年)

 この日曜日、大阪天満宮に遅めの初詣に出かけてきた。正月も五日となれば人もそう多くなく境内はのんびりしている。おみくじをひくと吉、「うれしきことのはじめなり」と出た。まずは安堵して、このあとはいつものように天神橋筋をぶらぶら歩きながら、ふとこの歌を思い出していた。この歌に昨年、出会ってから大阪に来るたびにフレーズが流れてくる。「大阪の続きのごときベルリンの記憶」がなんとも切ない。大阪とベルリンとではずいぶん印象が違うだろうに。ここには、記憶と時間と経験ということの連関が語られているように思う。

 バスの車窓には大阪の街の風景が流れている。見ているのは大阪の街でありながら、作者の意識はかつて滞在したことのあるベルリンの街の記憶にかよってゆく。それを大阪の続きのごときと端的にいうことで、くらりとするような時空の転換が起こる。そこには大坂の街を見ている現在と、かつてのベルリンで過ごした記憶とが重層的に想起されて、過去が現在の内部にあることがありありと体験されている。むしろ、ベルリンの記憶のほうがよりリアルな内実であり、今見ている大阪の街のほうが仮象の映像のようにも見えてくる。それは経験が記憶として深く濾過されているせいであろう。

 現在はバスの車窓からの風景のように次々と流れ去ってゆくにすぎない。現在とはまだかたちをなしてない時間の相かもしれない。しかし、大阪が経験されることで、それもまた記憶となり内部の時間となる。かつてのベルリンの街がそうであるように。

 考えたことはまったく見当違いかもしれない。この歌では、やはり大阪というどちらかというと俗っぽい街と、ベルリンという異国の街とのイメージの落差によって引き起こされる詩情のほうに言及すべきかもしれない。それにしても、筆者は大阪のバスに乗ったことがない。地下鉄はたびたびあるけど。そのせいか大阪の街をバスで移動することその事そのものがありえない古い記憶のようにも思えるのかもしれない。