岩尾 淳子


跳ねてゐる金魚がしだいに汚れゆく大地震おほなゐの朝くりかへしみる

楠誓英『禽眼圖』(書肆侃侃房:2020年)

 今日は、阪神大震災から25年目。
この歌とはじめて会ったのは、どこかの歌会だったような気がする。あるいは思い違いかもしれない。それにしても長く忘れられない歌だった。このたび歌集におさまり、本のなかで読むことで、前よりも平静な気持ちで読むことができた。歌はシンプルにできているだけに映像がとても鮮烈だ。金魚という可憐な生き物に命のありさまを託しているのも効果的な気がする。言葉に気負いがないだけに、誰にもなり替わることのできない痛みがくっきりと形を保っている。

歳月はまたたくまに流れるが、記憶は濃淡を変えながらあらたに更新されつづける。あの朝、命を絶たれた者は果たされなかった命のぶんも深く悼まれなければならないし、残された者は存在することの意味を、死を生を問い返すことから自らの時間を始めなければならなかった。この歌の作者もそのひとりである。

歌を読む。水槽に入っていた金魚が大きな揺れのために水槽から飛び出してしまったのだろうか。濡れていた金魚は床の上で苦し気に跳ねている。そしていつかその体が埃にまみれるように汚れてゆく。汚れは、おそらく迫りくる死の翳りを暗示しているのだろう。金魚の命が断たれてゆくまでの時間がどれほどの長さだったか、そのつかのまの時間が作者の脳裡のなかで止まったままである。下句では、それが大地震の朝のことであり、一回性の出来事がそれゆえに取り返しのつかないこととして、作者のまえに立ちふさがっている。地震はあの朝の一回きりの出来事であるはずなのに、そのときの体験は細部をともなって永遠のように何度も記憶のなかで繰り返される。そのたびに作者の現在はあの日、「汚れゆく」しかなかったものから、見つめられ、問われている。そのように生きるしかない負債を自ら背負ってこの作者は生きている。人にはそれぞれの荷物があり、残された道のりをいかねばならない。