さらば夏アトランティスを見て来たと誰か電話をかけてこないか

久木田真紀「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」(『短歌研究』1989年9月号)

 

 まったくプロフィールを偽って新人賞を受けたスキャンダラスな連作、というので期待して、大学図書館の雑誌バックナンバー書庫で探し当てたその受賞作は、しかし青春詠というにしてもどこか図式的で、ことさらに目新しい技巧を感じさせるでもなく、そのころの生意気な自分にとってはさほどの面白みもなかった。ただ選考委員はじめ、年末の年鑑に掲載された座談会などでも歌人たちがほとんど手放しのようにしてこの作者を褒めているのを目にしたとき、その多幸感みたいなものに「バブル」を感じたに過ぎなかった。

 強いて青春を感じた一首というのが掲出歌になろうか。作り物であるはずなのに、あるいは作り物であるからこそ妙に生々しい一連にあって、このまったくの虚構はすがすがしさを感じさせた。アトランティスを見てきたのはダイバーなのか、時空を超えてきた古代人あるいは未来人なのか。バブル期を取り上げた作品やドキュメンタリーに触れるたび、あんなに未来を感じさせる時代なのにインターネットもメールもSNSもないことに、その時代を事後的にしか知り得ない自分などには不思議な感じが抱かれるのだが、ここでの「電話」もそれに近い感覚を呼び起こす。アトランティスからの帰り、最寄りの電話ボックスはどこになるのだろう。失われた大陸からの声は、どうもスマートフォンでは受信できないような気がする。