水漬ける柱朽ちたる桟橋にいのちいとほし月の漣波

宇佐見英治『戦中歌集 海に叫ばむ』(砂子屋書房:1999年)

 海ゆかば水漬(みづ)く……からの連想で「みづける」と読み出したくなってしまうが、これは「みづづける」ないし「みづつける」なのだろう。もちろん、朽ちてしまった、というよりは水に浸食され、ともすれば腐ってしまったのではないかと思われる桟橋の柱には、いずれ水漬く屍となるであろう自分の姿が重なっているには違いあるまい。だからこそ「いのちいとほし」なのだ、とまで書けば説明のしすぎで、いささか詩情をそぐ。
文学と哲学のはざまで好もしい文章をつむぐ先達のひとりとして、勝手に私淑していたその書き手に戦中の傷をふかく残した歌集があることを知ったときの感情は、強いて言えば当惑に似ていただろうか。なんであれ、生き延びた人の遺書を読むのは自分でも古傷をいじりまわしているようなむず痒さがある。
そこからこの一首に惹かれたのは結句「月の漣波」にうかがえる、その後の作者にも一貫してあらわれる詩精神のようなものだろう。「漣波の月」とすれば散文的な意味が通りやすいところを、あえて(定家の「横雲の空」のように)転倒させたところに何かが生まれてくる。水面にゆれる月の影像を目にして、一滴の水もない月面の「海」にさざなみを幻視することさえ許されるかのような、不思議な気分。その気分を月面にも劣らず荒涼たる戦地にあって捕まえていたところに、詩人哲学者の執念のようなものを感じる。