ゆふまぐれ、とふ語の確實性のことなど思ひつつ江ノ電を待つ

家永楓『早稲田短歌』41号

  みをつくしつくつくみをしと啼く蝉の聲つと途切れて海があらはる 同上

 文語旧仮名、場合によっては旧字をも用いて作歌するのは学生短歌会でも少数派のころだったから、へんな自負心をもっていたところに、新入生のこういう歌を見せられて、すっかり敗北感にしょげてしまった記憶がある。

 口語でもつい使いたくなる「ゆふまぐれ」を、恐らくはそのただ中で電車を待っていながら、同時にそれを単なる「語」へと変換してしまい、安易な詩情をいましめるかのようにその確実性を思う。しかしそれとて電車を待つ間の暇つぶしにすぎないといってしまえばそれまでで、大仰な古典和歌以来の伝統やなにかも、手のひらの上で玩弄されている。

 百人一首でも、そのほかに古典に触れる機会でも、掛詞とあいまって記憶に残りやすい「みをつくし」もまた、意味を奪われて序詞的にセミの鳴き声へと軽やかに転じてしまう。文語体にせよ、旧字旧仮名にせよ、使っている自分に酔ってしまいがちなそれらを十全に使いこなしつつ、酔うどころか突き放して相対化しているのが恐ろしかった。