みずうみの岸にボートが置かれあり匙のごとくに雪を掬いて

吉川宏志 『石蓮花』 書肆侃侃房 2019年

 朝から雪です、と京都の友から昨日メールをいただいた。暖冬の今年もようやく雪がやってきた。いつもは2月の今時分は琵琶湖の湖北は雪におおわれる日が多くなる。この歌ではそんな冬の湖畔の風景が鮮やかに詠まれている。

雪をかぶった船着き場には釣り用のボートが幾艘かもやっている。小さなボートは敷板の上にふっくらと小さな雪のかたまりを乗せて安らいでいる。しずかな冬の湖畔の叙景歌。ボートや雪のふくらみが詩情豊かに形象化されている。上句はさりげなく描写されているようだが、何度か読むと「置かれあり」という表現が不思議な光沢を放ってくる。あまり使い慣れない言葉だ。「置かれたり」でもないし「泊まりおり」でもない。「置かれあり」には、人の手を離れて、どこか天上的な存在によって一艘のボートが無垢の世界にそっと置かれたような神聖な印象がある。時間の静止した永遠性をはらんだ静謐な空間が立ち上がる。

そして、下の句はこの作者の得意とする直喩。匙というささやかな日常の道具にボートの形を託すことによって、岸辺に浮かぶボートが懐かしいものとなり、その上に積る雪のやわらかな質感が見事に再現されている。この「掬う」というこまやかな擬人法もボートに命を与えているようで上品なぬくもりがある。雪を積んだボートと、雪を掬う匙、という関係性がこの作者によって発見されている。詩とはまさにアナロジーの発見でもある。

またこの一首には二つの位相があり、その落差がより深い詩情を醸しているようだ。一つは雪にしずまった広大な湖の縁に浮かぶ一艘のボートを俯瞰するような高い視点からの描写。そして、二つめはボートを細やかで親しみのある比喩で実物大に収める低い視点。この位相の切り替えによって平板さを免れ、歌に奥行きが生まれている。この構造が比喩の巧さだけではない、新鮮なポエジーを感じさせる理由だろう。目立たないけど、こまかな技巧を駆使した現代の優れた叙景歌だ。

この時期になると筆者も雪景色がみたくて、JR線で湖北地方によく出かける。そしてこの光景を目にする。それがこの歌に美しく再現されている。そういう歌にふと会うことも喜びだ。週末は湖北に行ってみたい。雪が残っているといいけど。