塩谷風月 『月は見ている』喜怒哀楽書房・2020年
一読して、素裸の言葉に切り付けられたような痛みが走った。親子という関係に亀裂が走った瞬間のこころの内部がありありと晒されている。親子という関係は代替がきかないだけに負の感情も絶対的だ。この歌では背景は消されて、子どもに大嫌いって言われている父である私が茫然とした姿であらわれる。それはあまりに無防備なだけに父と子が立場を変えたかのように痛々しい。私は、子をたしなめようとはせず、つまりは大人ぶる余裕もなく、悲しみのあまり蜜柑がむけなくなる。ここに挟み込んである「しばらく」という語も見逃せない。蜜柑がしばらくむけない、という表現は妙になまなましい。そこには心理的な打撃、あるいは思考停止してしまった空白の時間が鮮明に描写されている。手の中に握られていたであろう蜜柑の明るい色合いが主体のイノセントな感性を語っていて悲しい。
この歌は、ほとんど話し言葉に近いモノローグによって成立している。口語文体とひとことでいってもその表出のレベルは多様であるけど、この歌についていえば、ほとんど心との距離感がない。日常性から離れるのではなくて、むしろその亀裂に深く言葉を差し込んでいる。意図しないレトリックとして、歌全体が逃げようのない悲しみの比喩として宙づりにされている感じだ。
もう帰ろう。一本の樹とひよどりと湖のほか何も無いから
この歌も、やはり詩情の源は悲しみにはちがいない。前の歌と同じように、何かから断ち切られて孤絶した心が「もう帰ろう」と自分に言い聞かせている。ただそのあとは日常的な場面を描写するのではなく象徴的な手法で単純に樹とひよどりと湖を提示している。ひよどりは悪食の鳥であるから、世界との齟齬感をわずかに書き留めているのかもしれない。そして、主体のありかはどこか漠然として、世界のなかに掻き消えて行くようにも思える。空虚な感じが漂うがこの主客の区別の曖昧な世界が主体の心象そのものであろう。
言葉を書き留めるとき、心との距離をどうするのか、その距離の取り方がたったひとつの文体をはこんでくる。それは一回きりのものであって、一歩さきは未知である。具体か抽象かという岐路にいつも詩は立迷う。