岩尾淳子


絵本には死の苦しみが描かれぬと言ふ子の不満さいごまで聴く

大口玲子  『ザベリオ』青磁社・2019年

 子ども向けの絵本の中には、明るく楽しい世界ばかりを描くのではなく、死としっかりと向き合う優れた絵本もある。たとえば、『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ)や『ずーっとずっとだいすきだよ』(ハンス・ウイリヘム)など、大人が読んでも胸に迫ってくる。そこには、避けることのできない死ということへの気づきや、残されたものが他者の死という悲しみをどう乗りこえてゆくのかといった真摯な問いかけがある。しかし、死にゆくものの苦しみについてはリアルに描くことはない。どうしてだろう。

そう考えた時に思い当たるのは、やはり死そのものは、そして死を決定づけられた苦しみは圧倒的な絶望でしかないということだろう。その絶望のありようは生まれてきたことと同じように不条理であり、整理しようのない宿命としてわたしたちの行く手に立ちふさがっている。絵本は、未来へ向かう子どものために書かれているから、希望は語る事はできても死の苦しみという逃れようのない絶望は語ることができない。

この歌に登場する子はおそらく作者の息子さんであろう。この子は、絵本のごまかしに聡くも気づいている。愛するアナグマや、犬を死なせながら、その当事者の死の恐怖や苦しみに触れることがない絵本の世界の欺瞞をかぎつけ、不信感を抱いている。それは大人のこどもたちへの配慮であるはず。しかし、さかしらなことなのかもしれない。子どもの鋭い批判を大人のひとりである作者はだまって最後まで聴く。何かに触れている怯えや予感を静かに全身で受け止めている。

こうして「死の苦しみ」について遡及する子の存在はどこかイエスに通じるところがあるようにも思う。新約聖書はイエスの奇蹟を次々と叙述するが、それは同時に病苦にあえぐ人間の罪を描くことでもある。イエスは赦しとして「永遠の命」を与えると告げながら受難する。イエスの受難そのものが「死の苦しみ」の一部始終を語っている。とくに死に瀕してのイエスの苦しみようは絶望的でありそれゆえ荘厳でさえある。作者はわが子の言葉のうしろにイエスの苦しみを見ているようにも思えるがどうだろうか。