つばなの野あまりあかるく光るゆゑこの世の伴侶はだれにてもよし

日高堯子『野の扉』(1988年)

 

 

十五、六歳だったか、電車の中でのこと。
どんなことをしても大恋愛をして結婚する、そう言ったわたしに、友だちは困惑したような表情を浮かべた。
「わたしは……。よほど合わない人は困るけど……、でも誰でもいいわ。どんな人とでも、その人をよく見て大切にすればやってゆけると思う」
そのことばを聞いて、今度はわたしの方がびっくりした。
この時、ああ、人にはいろいろな愛し方があって、愛のありようは、思うより深いらしいと思った。

 

掲出歌の下句から、思わずむかしのことを思い出したが、上句、つばなの穂が出て、銀色になびいているのだろう、それはきらきらとあまりに美しい。執着というものが、洗い流されるような気分がよく伝わる。

この上句につながるものは、執着にかかわるものであれば何でもいいようで、やはり男女にかかわることを自然に呼んでくるようだ。
光がふくらんで流れるような情景だからか、あるいは〈茅花(つばな)ぬく浅茅(ぢ)が原のつぼすみれいま盛なりわが恋ふらくは 田村大嬢〉のような古歌が、とおく思われたりするからなのか。

 

ここにはロマンが感じられる。そのロマンがロマンのままに、下句にとけこむ。
そして、はかないさびしさを伴いながらも、思いは、人間の小さなこだわりをこえた、より広いところへ出てゆこうとする。

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