上田秋成
かが鳴きて、とは、鳴き声の表現。荒々しい、猛々しい鳴き声ではあろうが、こう書かれてしまうと荒鷲というよりはカラスの声のようでもある。力強く鳴いてみせたところで、天高く飛び去って行くのでもなければ、獲物に向かって飛びかかっていくのでもなく、夕暮れのさなか巣へと帰っていくだけだ。こちらに古典和歌読解の素養がないせいかも知れないが、予備知識なしで読んでみると、どうも荒鷲と言いながら、どこか荒々しさとはかけ離れたわびしさを感じさせられる。
羽でも、羽根でも、翼でもなく、翅という字をあてて「つばさ」と読ませているのも、勇壮さというよりは繊細さの印象をもたらす。翅と書かれると光が透けて見えるような、昆虫などの薄いそれを思わせる。この鷲の「翅」にもきっと、夕陽が透けているのだろう。力強く思われても、飛んでいる側からすれば、たった二枚の薄い羽根にすべてを託して危険な飛翔をしているのだから、鷲の実感からすれば「翅」になるのかも知れない。
いずれにせよその薄さを感じさせる「翅」まで鷲のことを詠んできながら、結句で視線は山から吹き下ろす風のほうへと移ってしまう。荒鷲という表現のわりには、どうもはかなげに薄れていく鷲の姿はそのままフェードアウトして、あとにはただ薄い「翅」にまつわっていた風だけが読者の前に残される。一首のほぼ中央部に「荒鷲」の語を配していながら猛禽のイメージは読み進めるごとに薄れていって、ついには目に見えない「風」で締めくくられてしまう。一首の中から鷲は飛び去って、視界から消えてしまったようである。