飯沼鮎子 『土のいろ草のいろ』 北冬舎・2019年
口調から聞いているのは作者の娘さんらしい。筆者にもとうに成人した娘がいるのでなんとなく雰囲気はわかるが、こんなことを聞かれたことはない。どうしてかいうと、そんなことは聞くまでもなくよく知っている関係なので。だからこの歌を読んだとき、現実感のない自由さ、あるいは一瞬からだが椅子から浮き上がるような浮遊感がよぎった。
歌を読むと、母親の年齢を聞いたことには特に他意はない様子。ほんとうに何歳か分からないから聞いてみたという感じ。ただその他意のなさがなんとも切ない。からっぽの場所から発せられた言葉があてどなく、空中にとどまっているようなそんな不安が一字空けのスペースにひびいている。そして、その言葉を受け止めたほうもまた戸惑いを隠せない様子。
ただ、その表出のしかたはとても冷静だ。子に見られている自分を「木の葉木菟のように」と比喩することで、自分がまるで深い森に棲んでいる梟のように子にとっては不可解な存在であろうことを控えめに示唆している。
ここには、親子といえども、いやそうであるからこそ二人を裂いてきた軋轢や、葛藤、齟齬に苦しんだ関係があったことが思われる。そして今、長い時間をかけてようやく癒された心のありようが、甘い感傷をぬきとってさらりと把握されている。そして文体も気取らないとつとつとした散文調で湿らない。だから日常臭さから解き放たれて軽く力の抜けた気配を与えているのかもしれない。
こういう一瞬の関係のありようを描写するのはそう簡単なことではない。娘も母もまるで赤の他人のような含羞をもちつつ、少しずつ接近しようとしている。まだ、感情はあとから形をもってやってくるのかもしれない。しかし、この歌に紛れもなくあるのは関係への希望のような思いだ。木の葉木菟はフクロウのうちでも最も小さい。それでいて森の聖性もまとっている。塵芥をはらった不思議にも美しい親子の像がここに再生されているようで心に残った。