死ぬもよし死なぬもよろし又ひとつどうでもよしの春は来にけり

太田垣蓮月

 有名な歌だけれど、つくづく投げやりなのがよいと思う。「春は来にけり」の間に合わせた感じが特によい。
もちろんここでいう春は旧暦の、それも今でも年賀状などに辛うじて名を残すところの「新春」なのだろうし、今のように満年齢を扱わない頃だから正月にまたひとつ数えで年をとってしまったという含意もあるのだろうが、それにしてもやる気のない詠嘆である。こんなんじゃ春も来がいがない。
その割にこうして歌にしているということは、わざわざ言明しなくてはならないということは、作者にも読者にもどこか死を恐れる気持ち、ないしは死を願う気持ちがひそんでいるからこそだというのが面白いところか。まだ死なないのか、と軽口を叩いてみてもいざ死なれると哀しいものだ。もう死ぬからと言い続けてもいざそのときが来たら「昨日今日とは思わざりしを」となるに違いない。どうでもよし、というのはそれだけ死が気になることの裏返しに違いなかろう。