つらいなら雪を炎と呼ぶ国へゆこうよ、もっとつらくなろうよ

佐藤弓生 「うた新聞」11月号 第92号 2019年

 

「雪を炎と呼ぶ国」の背景にはアンデルセンの童話「雪の女王」があるだろう。さらにそれを脚色して大ヒットをしている映画「アナと雪の女王1・2」や、そのパロディである動画「アナと炎の女王」を含めて、ファンタジーの世界そのものの比喩が「雪を炎と呼ぶ国」かもしれない。

歌を読む。日常の現実がつらいなら、そこからしばらく脱出してファンタジーの世界で心を遊ばせよう。ファンタジーを読むことで、現実にはありえない波乱万丈の冒険があり、危機を脱する興奮があり、生きることの喜びを知ることだってできる。

しかし、歌はそうした調和的で順当な理屈での回収をしてくれない。むしろ「もっとつらくなろうよ」と、読み手を手ひどく突き放してくれる。この意表をついた展開につい足元を掬われたまま宙づりにされてしまう仕掛けだ。おそらく、ひとつめの「つらいなら」とふたつめの「つらくなろう」へは意味が大きく変奏されているのだろう。最初はごく日常的なつらさであり、二回目は内面性をはらんで深化して使われている。

ファンタジーという異世界にはいってゆくことで起こる精神の浄化作用を「もっとつらく」なると逆説的に表現されているのかもしれない。ただ、こんな理屈で説明してしまってはこの歌のインパクトがだいなしになる気もする。「もっとつらくなろうよ」と身もふたもなく言い捨てられることに不思議な爽快感が生まれているのだから。

ところで、アンデルセンの「雪の女王」では、女王にさらわれたカイは氷の板で「永遠」という言葉を書き表したいと思うけど、どうしてもできない。女王はそれができれば自由になれるといい残して旅にでてしまう。

わたしたちは不可逆的な時間を生きている。そうした時間の呪縛が、私たちに「つらさ」を感受させる根源だろう。そこで、この女王のように「永遠」を、時間を越えてゆくことを渇望する。永遠の存在を恋いねがう思いが物語を生み、詩を語かたらせる。永遠のさきに見えて来るのは神そのものか。

それにしてもパスカルでさえ「神を知ることから、神を愛するまでは、なんとまあ遠いのだろう」とつぶやいている。結局のところ、神があたえるものがあるとして、その苦しみも救済もこころの時間のなかにしかない。