岩尾 淳子


救われたら来世はパンをつくろうか焼き上がり待つフロイン堂の前

沙羅みなみ  『日時計』 青磁社・2014年

フロイン堂は昭和7年創業、神戸のパン名店。もともとはフロインドリーブからのれん分け分けだからドイツの製法によって80年、変わらずに人気を博している。時間をかけて職人が手でこねたパンが焼き上がるのをお店の前で待つのは幸福な時間。香ばしいパンの焦げる香り。香りを嗅ぐのは芳醇なパンの魂を呼吸すること。そんな時間にふとよぎる想念、それは「救われたら来世はパンをつくろうか」と。それはこのうえなく安らかな祈りのようだ。
ただ、救済を望む至福の歌とばかりもいえない陰りがこの歌にはある。「救われたなら」という仮定から想定されるのは、現世での安らぎからは遠いところにある作者のこころの姿。今、生きていることになんらかの苦しみがあり、そこからは逃れられない。だから来世での救いを希求するのであろう。この歌にはそうした悲しみを抱いた魂がさまよいながら、フロイン堂の前にようやく辿りついたようなあてどない響きがある。あるいは明るい諦念とでもいおうか。やわらかな口語の韻律にせつなく透明な悲しみが流れていて美しい。
この歌を含む「フロイン堂前」と題された連作は4首。あとの3首を引いてみる。

 

直そうとして更にゆがんではてしなく歪み続ける体の軸を

はじめての日なたはここに 昨日には確かにあった何かが消えて

かなしみが新しくなるたびにその麺麭屋へ行くパンを買うため

 

3首とも、内面にながくかかえた屈託、そして大きな喪失感が憂愁となって歌を覆っている。とくに3首目の「悲しみ」の背後にはどこか死の影が漂っている。個人的な死を悼んでのか、あるいはもっと大きな死を嘆いているのか。どちらにしても、死からの視線にさらされながら生きているという痛みがどの歌にも痕跡をのこしている。そんな悲苦に耐えられないとき、パンがわずかに希望をあたえてくれる。あるいは死を鎮魂してくれると思いたい。信仰があるなしにかかわらず、人は苦しい時、何かに祈ってもいいし、祈るべきかもしれない。そんな場所が誰しもにあることを思いたい。