岩尾淳子


ひとり子の先立ちしマリアの老後など思つてをればいひたきあがる

          村田弘子『岡の上の家』(本阿弥書店:2018年)

 この歌を読んで不思議な感じを覚えた。この作者はキリスト教とどのような関係を持とうとしているのか。あるいは築いてきたのか。ここには仮に信仰を持っているとしても、素朴に身を投げ出すのではなくて。既成の信仰をたたき割って、自らの感覚で形成しなおすしたたかな信仰者の姿があるように思う。そして聖書の世界にわずかながら興味をもつ筆者にとっては、そういう信仰との主体的なかかわり方は魅力的に思える。

ひとり子、とはむろんイエスのことであり、マリアはその母。新約聖書ではイエスの復活やその後の使徒たちの活動については記していても、この母マリアについて冷淡といっていいほどそっけない。のちに聖母マリアとして崇拝の対象とはなるものの、当のマリアその人はどのような残りの生涯を送ったのか。ここで作者はそのマリアから偶像崇拝的な要素をはぎ取って、ひとりの身寄りのない孤独な女性として、自分自身と同じ生活者として想起している。それは聖書に登場する人物について、いったん生身の人間として還元することで、宗教色を払い落とすことでもある。曇りのない目でみることで、かえって偶像崇拝的な濁りから救い出しているといっていいかもしれない。ここには信仰ということへの節度ある知的な懐疑がなされている。そこにはまた祈りというようなありきたりな言葉では括れない、素手でつかみとった救済の場所があるようにも思う。

秋風にふつさりふつさりそよぐ竹さうかさうしてゐればいいのか

この歌集を読んでいると、家族や職業、あるいは身巡りの自然が丁寧に描写されている。しかしどの歌をとっても、日常的で平板な次元から放たれて、ほどよく抽象化され、未来につづく見通しのよい世界へと展開している。読む者を精神的にすこし自由にしてくれる喜びがある。その揚力はなになんだろう、と思ったときに垂直的な思考の軸と、水平方向への空間の広がりがバランスよく構成されいることに気づく。そうした深い認識を背景におくことで、10年という決して短くはない人生のさまざまな些事が、ひとつひとつ意味あるものとして統合され言葉が与えられ、見事に連関する時間として編み上げられている。