べつべつに絵を視ることになれてゆく河口のやうな午後のうすら陽

魚村晋太郎 「歌壇」3月号第34巻3号 2020年

 今、兵庫県立美術館でゴッホ展が開催されている。時間が空いたので立ち寄ってきた。平日のせいか思ったより人は少なく、しずかな館内にあわい照明がながれていた。展示場をめぐるにしたがって、高まってゆく画家の祈りの力のようなものに触れて感動的だった。力を抜いて絵から離れてゆくとき、ふと周囲が目にはいる。絵と向き合う時、人はいちように孤独なすがたで佇んでいる。

 この歌では、最初は二人で絵を観にいったのだろうか。館内にはいり順路にしたがって進むにつれて、それぞれ自分の心を引く絵の前に長く佇むことになる。それでしだいに別々に絵を観ることになれてゆくということか。それとも、さまざまな展覧会に、日時をあわせることをせずに、それぞれがべつべつに見にゆくことになれてゆくということかもしれない。

 絵を観る、ここでは視る、とあえて主観を切り捨てた表記することで、絵そのものへの観想的な関心は払拭されている。どちらかというと二人の関係性にのみに焦点が当てられているようだ。当初は一緒に絵を視る関係であったのが、しだいにべつべつに視るようになるまでのそれなりに長い時間の流れがあり、そこには感情の熱量がフラットになるまでの変容も感じとれる。ただ、それは単に関係が冷めたということではなくて、おたがいの中に他者性を発見して、それを受容してゆく意識の変化がとても繊細に表現されているようにも思う。そうしたこまやかなこころの動き、あるいは差異を、絵という時間が静止した空間をとおして書きとめることでいっそう生々しく「関係性」が見えてくる気がする。

 人は人と関係を作りながら生きているわけだけど、それは常に変化してゆく。あるときは安らぎであったものが、違和でしかない関係になりかわる。そこにはどんな区別も境界も存在しない。いずれは消えるはかない関係のなかで他者とはいったい何なのか。他者のなかに自分はあり、自分のなかに他者がいる。そんな想念が河口のような午後の薄日のなかに揺らめいている気がする。