山階基 『風にあたる』 短歌研究社 2019年
山階さんの歌には、どんなに卑近なことを詠んでいても埃を払ったような澄んだ詩性を感じる。それはどこから来るのだろうか。と長く考えあぐねていた。このたび歌集になって山階の歌を一息に読んでいるうちに、ふとこの歌に立ち止まった。
手を拭くために差し出されたおしぼりがまだ熱をもっている。それを目に押し当ててその熱が引いてゆくのを目蓋で感じる。しばし視界のくもりや、濁りが取り除かれるような快感がある。少し大げさに言えば禊ぎをしたような感覚。それが細部であればあるほど、美しさを孕んでくる、卑近なものであるほど、神聖なものに変容してゆく。そこに現出するさまざまなモノはひかりを孕み、唯一無二なものに変容している。そのような世界がつまりは「まぼろし」なんだろう。
ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと
汚れた鍋を洗って拭きあげる、その一連の動作にもさきほどのおしぼりを目に押し当てることと同じ秘法を感じる。ほんのささいなことによって世界の見え方がかわる。それは、わけのわからん、としかいいようのない曖昧なものに触れている感覚、山階さんの場合それは明るさとして認識されるもの。洗い清められた清浄感であり、生きることのささやかな希望のようなものだろう。それが炊飯器のご飯の白さであったり、マヨネーズの容器の余白であったり、納豆の糸の輝きであったりしながら、そっと差し出されるときそのつつましやかな詩性に深く魅了されることになる。
作者は見たもの、感じたものを正確に伝えようとしているのに、どこか淡くてはかない。それは巻頭に引いた歌のように、すべてはまぼろしとして詩に転換しているからだろう。つまらない現実をなんどもなんども想像力を弾ませて更新してゆく力はどこからくるのか。そこに生きることへのイノセントな渇望を感じるのは言い過ぎだろうか。