針葉樹は燃えやすい樹といつ誰に教はつたのか、空よ、夕焼け

       杉森多佳子  『つばさ』第17号   2020年

近所に住宅地としてはけっこう広い公園があり、アプローチにはメタセコイヤの並木道が続いている。メタセコイヤは針葉樹だけど、落葉するので紅葉の時期には炎となって燃え上がるように見える。葉を落としてからは、ほっそりと高く組まれた枝が空に透けている姿は聖堂のようにうつくしい。

普通、針葉樹は冬でも葉を落とさないので、寒さに耐えるために油を多く含んでいるらしい。そのため、広葉樹に比べて燃えやすい。それを「針葉樹は燃えやすい樹」とさらりとした表現にはどこか不吉な想念を孕んでいる。そこから助走して「いつ誰に教はつたのか」と時間を巻き戻すことで詩想がふかまっている気がする。うまくはいえないけど、やはり喪失することへの予感のような切なさがある。それに火がついて、「空よ、夕焼け」と、ほとんど言葉を失う寸前まで迫り、ひといきに夕焼けの空に放擲している。しずかな想念から始まって、この高みまで読者をさそいこんでゆく、粘りづよい文体に詩想がうまく絡まっていて鮮烈だ。

さらに歌を読んでいくと、教わってしまったことは、実は知らずにいた方がよかったという思いも孕んでいるようにも思える。「針葉樹は燃えやすい樹」とは、動かしようのない宿命のようで、「いつだれに教はつたのか」と呟くとき、そこにはある種の悔しさが滲んでいる。だれしもが知らないままに負わされている宿命への悲しみ。この歌には平明な言葉に秘められた抽象性があり、心の深部を覗いているような恐れがある。だれかに教わってしまったこと、つまり世界からの言葉には、やはり死への予兆があり、それへの慄きがある。それを知的に抑制することでとても清潔な印象が生まれている。

歌の景はただ夕焼け空があるだけ。そこに針葉樹がイメージされて、燃え上がる生命の情熱と、動くことのない深い静けさが同時にひろがる、読者のこころを一瞬はるかな空へと解き放ってくれるテンションの高さがここちよい。