「ぐるぐる食堂」日覆ひの文字に近づけば次第に中のがらんどう見ゆ

           小潟水脈『時時淡譚』ながらみ書房  2019年

 

一読して、この歌は少しずれた感じがして面白い。店の名前から喚起される異空間の気配もさることながら、食堂の扉に近づくのではなくて「文字」に近づく、という行為そのものが違和感をひきおこすのかもしれない。
そしてその視線の先には普通なら椅子やテーブルがあるはずなのに「がらんどう」があらわれる。ここまで読んで、「ぐるぐる食堂」は虚構ではないのか、という疑いがくる。それにしても「日覆いの文字」というところが、妙にリアルなのだ。なんでもない、街の日常風景をあえて切り取ることで、そこにあるモノが輝きをまし、日常の世界の奥行の深さや豊かさを見せてくれる。それがとにかく楽しい。これは意図しない遊び感覚かもしれない。

ちなみに「ぐるぐる食堂」なんて名前の食堂が実在するのか検索したところ、大津市膳所に実際にあったことに驚いた。ハンバーグやカツレツがメニューに並ぶ町の洋食屋さんだ。なんてユーモラスな名前だろう。こういう名前を題材に歌をつくってしまうところに、この作者のモノの存在感への独特の嗅覚が働いている。日常の具体にあえてとどまり、物に添うことで、歌を軽やかで意味の負担のないものにしている。詠み捨てて行くような低い姿勢からとぼけたユーモアが生まれ、ほのかな悲哀も残る。

歌集の後半になって、かつての恋人?を三十年ぶりに訪ねてゆくシーンがある。この場面が、申し訳ないけど悲しすぎて、思わず引き込まれてしまう。こういう恋愛の修羅場をもいともやすやすと、乾いたタッチで淡々と物語ってしまう、作者のふところの深さに驚いてしまった。

 

眉白く髯伸びた人現れて表情なく言ふ「どうやつて来た」

 

こんな酷い言葉をさらりと書き留めながら、ときおり外界へ逸らす懐かしそうな視線のゆらめきが哀しくて印象にのこった。

 

四十雀、目白、雀の一羽づつ一本の木にこの瞬時をり