木の影とわたしの影のまじりあひとても無口な道となりたり

谷とも子  『やはらかい水』現代短歌社 2017年

三月に入った。空はうっすら霞んで春めいてきた。人ごみを避けて木立や水辺を求めて散歩をしている。先日は昆陽池に行ってきた。水鳥はもう渡っていったらしくて数は少なかったが、気持ちよさそうに水面を滑っている姿がかわいらしい。冷たい風が心地よかった。早春の山にも行きたいが、ちょっとそんな元気がない。そんなときはこの歌集をときおり開いて読んでいる。

歌を読む。陽射しがこぼれる林間の道をひとりで歩いているのだろうか。入り組んだ木々の影がほそく交差しながら落ちている道に自分の影がおちていることにふと気持ちがゆく。街から離れてふかい山の静寂のなかへはいってゆくと、日常のさまざまな雑念も剥がれてゆくのかもしれない。深くなる木立の道を踏みしめて行くと、まとわりつく自意識の枷からも自由になれる気がする。

ここでは木は実体を消してシンプルな木の影となり、わたしも、わたしの意識を離れて影となっている。木も、わたしも意味をなくすことで、はじめて混じり合うことができる。山を知る者だけの至福だ。現実の重力からぬけてしまった時空間にはいった感覚を「無口な道となりたり」と、このうえなく簡潔な表現で言い収めている。

近代短歌では、かぞえきれない自然詠が詠みつがれてきた。山は聖性を帯び、人をはるかに越えるものとして讃えられ、帰依され、祀られてきた。そうすることで人は浄められ、蘇生できると信じられた。でも、私たちはそういう敬虔な精神をいつのまにか失ってしまったのかもしれない。情報に追われ、みんな孤独で、安らぎからは遠い。どうやったらこころの底から休めるのか分からなくなってしまった。帰るべき自然を失ったのかもしれない。

この作者は、そうしたところから始まって、手探りで私たちを拒んでいる山に近づいてゆく。自然をみずからの体感をとおして確認しつつ、言葉に可視化する。それは断片となってしまった自身の全体性を回復しようとする行為かもしれない。この作者の歌を何度も読む。清浄でやわらかな言葉に触れたくて。