宇都宮敦 『現代短歌』3月号no.77 2020年
新型コロナウイルスの流行の兆しによって、外に出る機会が少なくなった。そこで溜まった総合誌や、いただいた同人誌をぱらぱらと拾い読みしている。歌に読慣れてくると、なにこれ?って感じで異物感を差し込まれる歌に出会ってうろたえてしまう。やり過ごそうとするが、あとまで靴に小石が挟まったままのようで落ち着かない。
歌を読む。真冬のかなり冷え込む戸外だろうか、暖かい缶コーヒーを買って手のひらに包む。一瞬ぬくもりが伝わってくる。すぐに飲めばコーヒーは暖かい。口にすれば体がすこし温まる。ところが飲みかけると缶はたちまち冷めてしまう。缶コーヒーの温もりも、一瞬の慰藉も、またたくまに掻き消えてしまう。そして、その状況を突き放して笑っている自分という存在、そこにだけ残るかすかな実在感。いったい、自分はなにを冷笑しているのか。缶コーヒーのような安っぽいものにひとときでも暖を求めようとした自分の甘さ。あるいは感傷性。そういう叙情的なものを自分から弾き飛ばして、クリアな自分でありたい。いや、ほんとうは自分でもわからない自分を手探りしているような浮遊感がのこる。
これは虚無ではないけど、安易に慰藉されることはごめんだ、という冷めた自意識があり、断片化された局面に立って自身のありかを確かめてようとしているようにも思える。なぜ、そんなことをするのだろうか、そこにこそ現実のリアリティがあると直感しているのではないか。既成の意味をできるだけ脱臼させて、はぎ取ってゆく。その先に、かすかにのこる体温のようなもの。そこにこそ、現実の磁場があるのではないかといった想念がこういう、一見なげやりな叙述を誘っているのだろうか。
世界から無の欠片を取り出している徒労感もあるけど、空き缶の転がった世界を素足で歩きながら言葉を紡いでいるような、自らの存在の穴をのぞき込んでいるような、そんな怖さもあって、書き留めておきたい歌だった。