岩尾淳子


はじめてのように見る虹 消えてゆく記憶のほうがいつでも多い

       山本夏子『現代短歌』1月号 通巻65号  2019年

三月のはじめ、埠頭を歩いていると時雨が六甲山から流れてきた。この季節の気候は不安定で、ときどきこんな通り雨にあってしまう。それもつかの間のこと。すぐに午後の薄日がさして海があかるくなる。対岸の空に虹がうすく掛かっている。ほんのしばらくの時間。

この歌には、虹を見つけた時のよろこびというよりも、その美しさをとうに知りながら、何度も虹をとおりすぎてゆくことの寂しさのほうが心に残る。雨の上がってゆく空に大きくかかる虹は美しい。そして虹と会うたびに、初めて見るように気持ちが高まる。

そこに立ち止まり、作者の問いかけが始まる。なぜ、いつも初めてのように見てしまうのか。生きてゆくことは、いつでも初めての瞬間と出会うことだともいえるけど、それはまた果てしなく時を、自分を喪失してゆくことの繰り返しではないだろうか。作者は虹をみながら、この虹もまた自分は忘れてしまうのだろうと予感している。人と出会ったり、別れたりしながら生きてきた痕跡はたしかにあるはずだけど、おおかたは記憶から抜け落ちてしまう。だとすると、生きたはずの時間はいったいどこへ消えてしまったのだろう。あの時の一回限りの思いは何だったのか。忘れてしまった虹のようにもう跡形もない。

記憶には濃淡があるというけれど、消えてゆく記憶は、きっとささやかな日常の断片だろう。朝の空の色、家族との会話、駅の音、書類の束、夕餉の支度のあわただしさ、その消えてゆく日常のなかにこそ自分があり、生きている時間がある。押し流されてゆくものを、消えゆく前にひとつひとつ愛おしむように拾い上げ、言葉に置き換えてゆく。この作者がわが子の今のすがたを、取り返しがつかないもののようにせつなく詠うのも、わが子もいつかは自分から離れてゆくものと思い定めているからだろう。生きるとはこの世界に小さな石を置きのこしてゆくことかもしれない。戻れはしない時という細道に。

ひとつずつ子どもが声に出して読むひらがなは鳥 本を飛び立つ