ある朝を思いつめたり足りなくて足りなさを過ぎて咽喉を鳴らして

          なみの亜子  『角川短歌年鑑』 2019年

一読して忘れられない歌がある。それは忘れたいのに忘れさせてくれない歌かもしれない。ぐらりと揺さぶりをかけられて、その後もずっと不安にさせられるような、紙を引き裂くような歌。この歌には昨年、何かの雑誌で出会った。忘れられないまま、雑誌は行方不明。しかし。『短歌年鑑』でふたたび出会ってはじめの衝撃が薄れていないことがわかった。

この歌には無惨で野性的な負のエネルギーが充満している。まず二句切れで言い捨てることで緊張感が堰をきるように溢れている。次に「足りなくて足りなさを過ぎて」と畳みかけるように言葉をかさねることで、あられもなく襲いかかる飢餓感がとまらない、さらにその苦しみは結句へなだれ込むが、回収しようもない。苦しみそのものがまるで「咽喉を鳴らして」いる獣のようにおののきながら痛ましい姿をさらしている。

この歌に迫力があるのは、何がどう足りないのかまったく明らかにされていないからだ。正体のわからないものほど恐怖を煽るものはない。ここで、愛情がとか、お金が、とか、あるいは平和が、のように何が足りないのか明らかにされれば、それほどの不安を煽らない。隠されているから、見えないものの全重量がおしよせてきて、まるで荒野に置き去りにされたように読むものを心底おびやかすのだ。

痛みや苦しみを読むことに詩の方法があることも確かだ。ただそれが具体的に提示されることでどうしても類型的になってしまう。悲しみが多く類型であるように、苦を詠むこともまた類型になりやすい。それが個別的な死であったり、別離であったり、または全人類的な戦争であったりしても大きな普遍性をはらんでしまうのは必然であろう。そうしたときに、主題的なにおいをまとわない言葉のリアルさはどう表現されるのか。今こそ世界の苦を詠まねばならないという声は大きいが、そういう言説にどこか違和を感じてしまうのは何故だろうか。