ことごとく人眠らせて国道を観光バスは過ぎてゆきたり

        志垣澄幸『うた新聞』3月号 第96号 2020年

春の大路を過ぎてゆく色とりどりの観光バスをあたりまえのように見送っていたけど、あれは平時の風景だったのかとつくづく思う事態になってしまった。行きたいところに行って、食べたいものを美味しく食べる、そんな日はいつ還ってくるのか。日常の平穏をうしなって日常の豊かさをつくづく思う。

さて、バス旅行をすると行きは賑やかに話が弾むが、帰りは旅の疲れもあって乗客はたいてい眠ってしまう。バスの中は寝息だけが静かに流れる。そんな光景をこの歌ではバスを主体とすることで、乗っている人もバスも同じ生き物のようにあたたかく描かれている。あるいはまた、バスのなかで眠る人は、運命のすべてを任せて安息しきっているかのように安らかな眠りのなかにある。それは満たされた幸福な時間でありながら、ふと不安にもなってしまう。いったいどこへ人々は運ばれてゆくのだろうか。
はかないと言えば言い過ぎだけど、眠っているあいだにひと世の夢をみているような悲哀もバスは運んでいるようにも思える。そんな想像を抱かせてくれるような膨らみのある一首だ。

先のない年齢(とし)になつても夢をみる夢みて先のないことを知る

連作のなかにこんな歌もあった。自らの老いとシニカルに向き合いながら、それをことさらに嘆くでもない。自らの鏡像を、アイロニーをこめてかるがると詠んでいることに新鮮な驚きを感じてしまう。平易な歌いぶりの中に、「夢をみる夢見て」と巧みにリフレインをいれて、シャープに切り返す発想のかがやき。それは長く生きることによって磨かれ、深まった知性の言葉だろう。

朝の陽がやはやはと壁のひとところ三角形のかたちに差せり
『歌壇』9月号  2019年

昨年はこんな歌にも出会って、はっとした。みずみずしい感性と緻密な描写、そしてどこまでもやわらかな口調で負荷をかけない。しずかな壁に思索が呼び出したひかりが揺れている。