岩尾淳子


罌粟咲けば罌粟にあふるるおもひありてひと日陶器のごとく過ぐさむ

林和清  『木に縁りて魚を求めよ』邑書林 1997年

 

最近は道端にナガミヒナゲシが可憐な花を咲かせているのをよく見かける。観賞用に栽培されているのはヒナゲシ。ふつう罌粟と呼んでいるのはたいていこのヒナゲシ。本物の罌粟は栽培が禁止されているから、咲いているのをなかなか見ることはできない。罌粟は果実から阿片がとれる禁断の花。その美しい花弁に人を惑わす麻薬が秘められている。禁断であるからこそ、抑えようもなく掻き立てられてしまう欲望があふれてくる。この歌は、そうした陶酔に身を任せる快楽を、その夢想を流れるような韻律で描いて見せてくれる。

一首のイメージはあくまでも夢想にすぎない。しかし、言葉というのはとんでもない仮想であってもリアルに像を立ち上げることができる。それが、祝福された天国であろうと、汚濁の魔境であろうと自由自在にこころのなかに入り込んでしまう。さらにいうと、そうした虚構は禁欲的なものであるよりも、より悪魔的である方が鮮烈な輝きを放つ。

この歌では、邪悪というほどではないにしても、罌粟の花が醸し出す禁断の世界へのあやうい憧れがあり、その欲望のありようが読む者の内心をも揺らさずにはおかない。禁断を実際に侵すのではなく、侵すことを夢想すること、非現実の世界にゆらゆらと揺蕩いながら一日をすごすことの方がかえって罪悪に近いような、さらにいえば破滅的な快感に満たされているような、そんな気さえする。閉ざされた無明の内部でありながら、そこには夢想という霊に満ち溢れた完結した世界がある。下句の〈陶器のごとく〉という喩はその謂いであろうか。

 

悪魔と魔神(デーモン)を知ることなく、またそれらに対するたえまない戦いなしには、どのような気高い、高められた人生も存在しないと言ったのはヘッセ。悪こそが善の母。そうだとすれば、人が悪に魅了されるのも無理もない。この歌は、そうした混迷した人間存在をとっくに知っていたかのように高みから見下ろしている気がする。