行き先の表示つければそこまでは行くバスに身を任せたり

高瀬一誌   『レセプション』  1989年

                                               「高瀬一誌全歌集」短歌人会 より

一読して力がすっと抜けた。さまざまにバスは歌に詠まれており、たいがい、どのバスの歌も好きになる。ふっくらしたバスには体の力をゆるめるような、集中していく緊張感をほどくようなやわらかな雰囲気があるのだろうか。電車ほど大きすぎず、自家用車のような狭苦しさもない。遠距離バスでないかぎり、そう遠くにはいかないという安心感があるし、小刻みに人が乗り降りするざわめきも心地よいノイズかもしれない。

さてこの歌にはちょっとしたひねりがあって、読む者に浮遊感をもたらしている。それはバスの描写のしかたにあるようだ。普通、町なかを走るバスには行き先が表示してあるのは当たり前のこと。行き先がそれぞれのバスに決められているから、先頭に表示しているのであって、行き先の表示をつけたから、そこまでゆくのではない。あえて、ものごとの順序を逆転させることで、バスという乗り物が現実の相からふわりとはみ出してくるような違和感が残る。

さらに想像すると、バスにも気持ちがあって、ほんとうはそっちには行きたくないけど、行き先が表示されたから仕方なしに行ってあげようか、みたい。バスをただの乗り物としてとらえずに、ありありとした存在としてあらためて取り出している。これを異化作用とでもいうのか。

また主体の姿勢がおもしろい。バスは表示した行先まではゆく、つまりそれを超えて遠くまでもいかなし、その終着点にいたるまでにほうりだされることもない。そのことを暗黙の裡に了解したうえで、バスに身を任すのだという。ここで注目したいのは、自分の固有の行き先には関心がないという投げやりさ。すべてはバスの、あるいは偶然のなすままに自分の行く末を預けている。

ここまで読んでも不可解な感じがのこるのは、バスと〈わたし〉の双方ともに意志がまったく存在しないということ。つまり中心がどこにもない。禅の瞑想の世界のようだ。あるのは関係性だけであり、空無に投げ出されたままそこに身を任せるしかない。

世界の外へでも、どこへでも。