とある日の夕まぐれどきとび交へるをさなき声の中を通りき

『樛木』 1972年 (玉城徹全歌集より)

 

『玉城徹全歌集』をときどき取り出しては少しずつ読んでいる。目にとまる印象の強い歌はいくらでもあるから、つい見逃していた歌に出会うとあたらしい世界を発見したようで嬉しくなる。この歌もその一つ。ふとたちどまると、それまで見えなかった幻想的な風景が立ち上がってきた。とりたてて具体的な事柄はないのだけれど、一首にながれるのびやかな感情の流露にしずかな美しさが生まれている。

ここでは夕暮れどきの路地で幼い子供たちが遊んでいる様子。作者は帰宅の途中だったろうか。その声を耳にしながら、傍らを通り過ぎてゆく。ただ、それだけのこと。目を引くような出来事は起きてはいない。具体的な子どもの姿は消され、ただ何人かの幼子の声がそう隔てのない場所から聞こえてくるだけだ。その声の中を通ったと簡素にいうことで、そのことが日常を脱ぎ捨てて、かろやかに浮上した美しい行為のように思えてくる。

それは、夕まぐれどき、という一日の中でも一番あまやかな気分を誘い込む時間のなかで、無垢でいとけない幼子の声がとても清らかに響くせいでもあろう。その声はなんの愁いもない明るい声であり、おさなごの声に触れることでひととき慰藉されるような感覚が伝わってくる。さりげない日常をとりあげながら、その場面から子どもの声だけを残し、抽象化して本質を差し出している。そこにこの歌の簡素で気品のある美しさがあるのだろう。

歌の背景については特に提示されない。「とある日の夕まぐれどき」とあるだけ。このそっけない入り方が、歌の位相をあくまでも平凡な日常のなかの一コマに留め置いており、過剰な感傷から救っている。平凡な日々のなかの、とりわけ平凡な一日の夕ぐれこそ、何にも代えがたい稀有な時間なのではないだろうか。そこで幼子の声と出会うという偶然性に神聖なものさえ感じてしまう。その声は、行き過ぎてゆく〈わたし〉に、ほんとうにかえるべきところはここではないのかと問いかけているようにも聞こえる。