魚村 晋太郎


再び若くなることあらじ昨年よりも幹太く濃く椿ひらきぬ

青井史『月の食卓』(1994年)

椿は桜とならんで日本を代表する花。古くから、実から油をとったり、灰が媒染剤に使われたりし、近世では茶花として好まれた。
もともとは日本をふくむ東アジアの原産だが、ヨーロッパでは〈日本のバラ〉と呼ばれ、19世紀には椿のコサージュや花束が夜会のアクセサリーとしてもてはやされたという。
花は冬の間から見られるが、木へんに春と書くだけあって春の季語である。

人は再び若くなることがない。それは誰でも知っている。
だから、そのことを正面切って詠うのはふつう難しい。
この一首の場合は下句の、昨年よりも椿の幹が太くなった、という発見が一首の迫力になっている。
たしかに、木の幹は成長するにちがいない、けれど、ふつうそれは目で見て感じるほどのものではない。しかも、幹が太るのは、植物の場合、どちらかといえば若さの表れのような気もする。

しかし、作者には、ほんのわずかな幹の成長さえ、残酷でぬきさしならない時間の経過と感じられたのだ。
その時間への怖れのような感覚に凄みがある。
濃く、というところには、より作者の主観があらわれているが、それが説得力を持つのも、幹太く、という発見があればこそである。

同じ連作に「太古より散るのが下手な椿たちふはりと約束を飼ひて咲きゐる」の一首もある。
約束とは、どんな約束だろう。
毎年美しく咲く、約束だろうか。
残念ながら、そうではないように思える。