妙にあかるきガラスのむかう砂丘よりラクダなど来てゐるやもしれず

永井陽子 『小さなヴァイオリンが欲しくて』 砂子屋書房 2000年

 

これは窓ガラスだろうけど、単にガラスとすることで意味の消えた空間に漂っているような浮遊感がある。そのガラスの向こう側が明るい。妙にあかるい、とすることで現実感がふっと拭い去られる。ガラスは外の世界との境界のようだ。さらに言えば、そのガラスの向こう側は非在の空間だろう。ガラスの向こうは砂丘のようで、そこから何かがやってくる。ここからは想像の世界、砂丘から駱駝が来て佇んでいるかもしれない。なぜなら視界はただぼんやりと明るいだけだから。

 

永井陽子の歌には、地上の束縛から離れ、自由に想念の世界に遊びたいという憧れを強く感じる。ここではそういう憧れがガラスの向こうに駱駝を呼び出してしまった。駱駝はどことなく郷愁や悲哀を感じる動物。異国の動物なのに懐かしい印象があるのは「月の砂漠」の童謡のせつないイメージがあるからだろうか。

 

この歌のなかで実在するものはあるだろうか、ガラスは実在するのだろうか。ガラスでさえ、作者の心象の世界を支えている境界くらいの意味でしかないかもしれない。あるのは、砂丘とラクダを想起している作者のあてどない憧憬だけだろう。現実に縛られた「私」という重みを消して歌を日常から非日常に放っている。それを可能にしているのは自由なイマジネーションだ。言葉はときに意味の重さを離れて心を解き放ってくれる。それはひとときの慰謝でもあろう。永井陽子の歌の魅力はそんな言葉のやわらかさにある。

 

それにしても、この歌をなんどか読んでいると、このほの明るさといい、ラクダという動物の優しさといい、この作者のなかに秘められた人恋しさを孕んでいるようにも思われる。それが結句の「来ているやもしれず」といったはかなげな期待のかたちに結ばれていやしないか。それは現実の人を恋することではなく、安らかな孤独をもとめつつ、ひんやりとした孤独を嘆く作者の悲しみそのものでもあるようだ。それは自分を消してしまいたい非在への希求だろうか。