ゆく雲はするどき影を胎はらめども言葉をもちてわれは来にけり

       岡井隆  『鵞卵亭』(「岡井隆全歌集Ⅱ」)思潮社 2006年

 

よく引かれる歌なのでもういい足すことなどないのだけど、もう一度ゆっくり味わってみたい。最初はやはり下の句のかっこよさに惹かれて、歌人とはこういうものかと圧倒されていた。しかしよく読めば、歌の卓抜さはやはり上句にあるのは明らか。ゆく雲は、と古風な歌いぶりでゆったり入りながら、「するどき影を」、とすぐにギアを上げて、言葉のトーンに緊張感が高まる。そして「胎めども」でやわらかく景を肉体化する修辞力がすごい。なんとなく不穏な先行きへの予感を隙のない隠喩にあつく塗りこめてゆく技にはうっとりする。

またこの作者が好んで使う接続助詞の「ども」は本来、逆説の接続に機能するはず。その逆へのベクトルの力をこの作者は、自分自身の内面をゆらゆらと掻き立てる装置としてより高度な順接の接続詞として変容させてしまっている気がする。「歳月はさぶしきちちわかてどもた春は来ぬ花をかかげて」(『歳月の贈り物』)などもそんな使い方ではないだろうか。「ども」で歌の韻律が屈曲しながらためらいつつ、結果しずかに下へ流れ込んでゆく川の淀のような感じ。そこに韻律の独自性が生まれるのだろう。

さらに、この上句で目を引くのが、「ハラメドモ」に「胎」という字を使用していること。この一字に未来を託すことで、現在の自己のすがたを死からの再生としてイメージしているかのように思える。すべてを捨て去って無になることで、いったん死の世界へしりぞく。そして再び自らに命を与える深い「胎」をくぐって旗をかかげるように言葉をもってここに来たんだ、私は、と言挙げしているかのようだ。

 

ひとことで描写というけど、そのレベルはさまざま。この歌の上句は雲の描写でありながら、平板な描写におわらず、深く内面に切り込むような隠喩として機能している。描写と隠喩の力をまざまざと見るような一首だと思う。