容赦なくシンクに溜まる生ゴミはせめて何かのメタファーであれ

          三田三郎「ぱんたれい」VOL.2 2020年

 

「ぱんたれい」は三田三郎と笹川諒が編集する同人誌。

 

毎日、なんらかの調理をしていると自然に、あるいは宿命的に生ごみが溜まってくる。それは当然なことなのだけど、この作者はその生ゴミにかなり過剰に反応しているようだ。どうしてだろう。おそらく、その生ゴミは自身が生存することの残骸であるからかもしれない。

それが増殖してゆくことに必死で堪えているといった感じ。

さきほどまで新鮮な食材であったものが切り刻まれて、たちまち生ゴミへと変容して価値を失ってしまう。そのように人も、絶え間なく存在の意味を無化しようとする時の流れにさらされている。ここにあることの意味つまり〈メタファー〉をどうにかして見出したいという飢餓感。それはとりもなおさず「自由であること」への切実な希求だろうか。

歌の中心には、空虚であるように見せかけて、実はかなり求心力の強い自我が突き刺さっているように思える。それがともすると「容赦なく」、「せめて」といった、攻めあげるような身体感覚を煽っているように思えるがどうだろうか。

 

放尿が終わってしまう寂しさに負けまいと覚えたての軍歌を

 

 

笹川諒

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって

 

まず、一読して上句の美しいフレーズに心を攫われてしまう。解釈をすると台無しになりそうだけど、少し考えてみる。まず歌の眼目の「この世に浅く腰かける」には、生存していることの希薄感が表出されているようだ。あるいは淡い諦念が響いている。いつかは死に収斂されてゆく時間のさなかにあって、そこからこぼれおちないように椅子には深く腰かけてみる。だけど、それはとりあえずのこと。先のことはすべて決定されているという宿命観がフレーズの背後に見え隠れしている。

何度か読むうちに、すべては決定されているという〈宿命〉にかえって安らぎを見ているようにも思える。そうした想念がより静謐な言葉を呼び出し、更には自由のありかを言葉の力に求めているようにも思える。歌の中心に言葉を置くことで、自我からより遠くへと放たれてゆく。

〈自由〉と〈宿命〉とは相反する概念だけど、ひとりの人間のなかでは相互に補完的に内在しているのかもしれない。三田の場合はより〈自由〉へのベクトルが強く、笹川はどちらかというと〈宿命〉へのはかない憧れが強いように思えてならない。

 

増やしてもよければ言葉そのもののような季節がもうひとつ要る