青鷺がないて飛びたつ風景もすでに心のなかの一枚

小谷博泰『時をとぶ町』  飯塚書店 2020年

 

こんな歌を読むとつくづく「今」ってなんだろうと思ってしまう。見ているはの今、目の前を飛び立ってゆく一羽の鷺。発つとき青鷺はざらつくような声をあげて、ひろがる川面のひかりを掻き混ぜただろうか。その声は心にわずかな搔き傷をつけたのではなかろうか。やがて記憶の中にアオサギの声や姿が刻印され、それはもう後戻りはできない過去の風景。心の中だけに再生される記憶という残像。そういう残像を幾枚も重ねながら過去はあり、それが心ということか。

それにしても、歌の中の青鷺はこうして歌に詠まれることで、何度も作者の心の中から飛び立ってゆく。今という風景はあとかたもなく消えてゆくけど、記憶の中でなんども更新され、さらには創造されていくのかもしれない。まさに「この世は刹那」、ではあるけれど、こうした静寂な記憶として詩歌によまれることで、永遠になるとはいわないが、そのはかない詩情によってもういちど蘇る気がする。

 

次々と黄色い葉っぱが落ちてくるこの道の先にあるという街

 

日に日に秋が深まるころか。黄色い葉っぱ、という幼い言い回しにどこことなくノスタルジーがただよう。落ちてくる葉は時間のかけらだろうか。とどめようもなく次々と過去へむかって落ちてゆく黄色い葉っぱ。その落葉の風景のさきに街があるという。それはまだ見ぬ開かれた未来のことだろうか。どうもそうではない気もする。先回りしてあるのは、かつての街。失われてしまった賑やかで懐かしい街。記憶のなかにだけまだ存在する過ぎ去った時代を見ている気がする。

 

この歌集をとおして作者の心は現在から過去へそしてまた未来へと、時の移り変わりのなかを自由に行き来している。記憶というもうひとつの時間をやわらかな言葉で語りながら、生きることの深みへと連れて行ってくれる。豊かな過去のひとつに神戸の震災への記憶があり、そのしずかな歌いぶりがかえって悲しい。

 

幼なきは無邪気にホースを持っており震災の日を思えば痛し