ひたすらに面わまもれり悲しみの心しばらく我におこらず

 

島木赤彦 『氷魚』大正9年(「現代短歌全集」筑摩書房 第四巻より)

 

赤彦は大正6年の暮れに長男を亡くしている。その悲痛のためしばらくは歌ができなかったという。この歌は大正8年に「逝く子」と題した連作の1首としてアララギに発表されている。この歌のあとには「むらぎもの心しづまりて聞くものかわれの子どもの息終わる音」といった歌がつづく。

それにしても掲出した歌は、子どもの死という悲劇を目前にしながらどこか虚ろで、起こってしかるべき悲しみの感情が動かないことをいぶかしんでいる別の意識がはたらいている。この歌にはどこか茫然として力が抜けてしまった緩みがある。淡々と無感情な自分のすがたを描写しているのみだ。

情感は剥がれ落ち、どちらかというと口語に近い平淡な口調でその瞬間の心情がさらりと呟かれている。しかし、それゆえにこの歌が今、とてもリアルに胸に迫ってくる。まったく無防備でかざらない言葉によって、心のすき間の心理を掬いださすことが可能になっている。

 

にわかに受け入れがたいような圧倒的な惨劇に直面した時にはたいがい感情が停止してしまう。あるとすればその事態にたいする違和感だろう。いったいこれはどういうこと? というような一種の無重力状態だ。そのとき心は現実の時間の流れから逸れてしまっている。時間が過去から現在、そして未来へと連続的に流れるのではなくて、切断されてしまって今という時間しかない。自分の心から全体性が喪失されて、浮遊しているような感覚。ここには整理され、意味づけされるまえの生々しい瞬間が記録されている。それはある種の恐怖感かも知れない。未完成で、散文的で、なにも言っていないかもしれない。しかしそれゆえに読む者をたとえようもなく厳粛な気持ちにさせる。悲鳴をあげている生の極みにふれて。

赤彦はこの歌集のあと、自ら提唱する「鍛錬道」をつきすすみ、その歌風を完成させてゆく。「空澄みて寒きひと日やみづうみの氷の裂くる音ひびくなり」「あからひく光は満てりわたつみの海をくぼめてわが船とほる」、など二句切れの引き締まった韻律と、こまやかな自然の描写力によって深い情感が生まれている。見事な到達だ。それでも、赤彦に我が子を愛おしむやわらかな歌があることが嬉しく、何度でも読みたい。

 

はるばるに家をさかり来て寂しきか子どもは坐る畳の上に

国遠く来つるわが子を埃あがる日ぐれの坂に歩ましめ居り

『氷魚』より