街のここかしこにカノン湧き上がり落ち葉は落ち葉を掃く人に降る

稲葉京子  『花あるやうに』角川書店 2006年

 

秋が深まり、朝晩冷え込むようになると街路樹が美しく色づく。そして時が満ちてゆくころ、街中の樹々は一年の最後を愛でる祝祭のように惜しげもなく空に木の葉をいっせいに舞わせはじめる。それはまるで街のあちこちに音楽が沸き上がるようだとこの歌はいう。カノンは同じモチーフの旋律を繰り返し追いかけてゆくので、この一首には耳に音が響きあうような華やかさがある。

 

その追奏のように、樹々にも遅速があり葉が葉を追いかけるように落葉を続ける。一番早いのはアメリカ楓だろうか。そして欅、銀杏、プラタナス。際限もなく舞い落ちてくる落ち葉を徒労のように掃いている人がいる。まるで祈りの姿勢のように身を傾けて寡黙に舞い降りる落ち葉をしずかに掃く人の姿はどこか清浄な雰囲気がある。その敬虔さを祝福するように落ち葉はその人に向かって降るのだというとき、流れゆく時間のなかで自然の営みのなかにとけこんで、ついには木の葉のように消えてゆく人の存在のはかなさが、あえかな詩情を立ち上げている。

 

この歌には、どこか高いところから地上を見下ろしているような俯瞰的な視線があり、それがこの歌にのびやかな空間を与えている。そして繰り返し流れ来る音楽は、すぎてゆく時間そのものであり、この空間にきよらかな印象を与えている。

私たちの存在の行く手には、いつかは散りゆく落ち葉のような死が待っており、あとからあとから死は降り続く。それはまぎれもない悲しみなのであるが、どこか音楽に通じる慰藉にも似ているようにも詠まれている。生から解き放たれることの安らぎ。そして、死によってもたらされる再生への時間。ここには生と死との限りない往還の相が透けて見えるような気がする。

 

稲葉京子の代表作に、「抱かれてこの世の初めに見たる白 花極まりし桜なりしか」があり、また「風よりも静かに過ぎてゆくものを指さすやうに歳月といふ」がある。稲葉京子は花の歌人といわれるほど花をいのちそのものとして繰り返し詠んできた。

この世に生をうけての最初の記憶が桜の白さだったという。それは幸福で満たされた幼年期を象徴しているのであろうが、白、というときどこか空虚さが入り込んではいないだろうか。そして、歳月の歌はその生涯にわたって見つめてきた自らの生と伴走する空虚そのものを詠み込んでいる。それが歳月というものだと。それにしても、稲葉京子のこの洞は、なんとも清らかだ。そこにはどのようにも美しく奏でる言葉あり、詩情があり、はるかなものを焦がれる寂しさがある。