どこにでもある不安なりペンに書く文字をゆがめてブルーブラック

         久我田鶴子『雀の帷子』 砂子屋書房 2020年

 

 

この歌に会ってふわっと浮くような不思議な感じがした。歌は下から読むのがいいように思う。

陰鬱なブルーブラックのインキでなにか書かれている。それはあたかも書く人の不安をあからさまに見せつけるように文字が歪んで見える。それにしても、ここに綴られているものは、どこにでもあるありきたりの不安なのではないのか。

この書き手は、他者のように読むのが順当だけど、もしかして作者自身かもしれない。自分の抱いている不安を、「どこにでもある不安なり」と切って捨てるように判断を下すその心ってどういう風景だろう。

だれしも、事の大きいか小さいかを問わず、さまざまな不安な心持というのはあるし、不安こそが自分のアイデンティティの根幹をなしている場合だってある。自分を苦しめてやまない不安は実存の泉のような気がする。ここでは〈不安〉は実存の暗がりほうには降りてゆかない。どちらかというと〈不安〉一般というように、感情の個別性をいったん無化、さらには普遍化してしまう。

ここには、さきほど書いたような観念の湿りが感じられない。どちらかというと、からりと乾いた人間観があって、不安の醸しだす情緒に足をとられていかない。そこにはとても理知的な精神性がほのみえる気がする。

かつてわが教室に蒔きし種なるも押しつけがましと言ひし男子(おのこご)

この歌にはちょっと苦笑してしまった。作者が教師であったころのエピソードだろう。よく植物を育てるのは情操教育にいいと言われたりする。そこまで考えたかどうかは置くとして、担当する教室に花の種を蒔いた場面に、それを押し付けがましいという男子を登場させている。偽善とはいわないけど、大人の不自然な作為を拒否するこどもの尖った感受性が突き刺してくる。それを抑圧したり、あるいは子どもに取り入ろうとすることなくありのままに受け止めている。巻頭にあげた〈不安〉に対しての冷静で乾いた対応と近いものがある。この自他にこだわらない無碍な明るさは歌にひとすじの強さを呼び込んでいる。

 

ポンと手を打つ一瞬に潰されし〈わたくし〉が見ゆ 笑つてしまふ