岩尾 淳子


鳥語降る木を見上げゐる朝の道悲哀の声はみぢんもあらず

       志垣澄幸  『日向通信』VOL・33 2020年6月号

 

『日向通信』は志垣澄幸の個人誌。掲載されている32首の作品には彫りのふかい静かな力があり引き込まれた。

 

5月ころは降るような鳥の声を浴びる日が続く。この歌にはそんな朝の鳥のあかるい囀りがくっきりと描写されている。〈鳥語〉という言葉の使い方も印象的だ。聞いている〈私〉は人間であるよりも鳥のほうに境界を一歩踏み込んでいる。鳥の囀りの中に身を任せて、「悲哀の声はみぢんもあらず」ときっぱりと言い切る心根のすがすがしさに気持ちを持っていかれる。

そう思ってからもういちど読むと、つぎには「悲哀の声はみぢんもあらず」には、切ない羨望が込められているようにも読める。悲哀がない鳥たちの清らかさを前にして、主体の中にはうずくような痛み、あるいは陰りのようなものが一瞬、通り過ぎている。鳥たちの清らかな世界への憧れがこの結句を立たせていて、心にのこる一首。

 

天空と草生はげしく上下して映りてをらむ蝶の視界は

 

感覚が蝶の視界に強く入り込んでいる。一首を読むと、まるで主体の眼が蝶の眼といれかわったような、異次元の感じを受ける。「天空と草生はげしく上下して」とするところ、なまなまと蝶の視界をリアルに描写しきっている。さらに読むと、「天空と草生」という言葉を選び取ったこころに気持ちが寄ってゆく。はるかな天空もなつかしい草生もこの作者の世界そのもの。蝶の視界はほかでもない、作者の心象のような気がする。

 

風のなか吹かれてきたりまた一人で帰らねばならないことを思ひて

 

この作品にも言えることだが志垣作品には強く〈私〉を押し出す騒がしさがない。静謐な世界からつつましやかに言葉がさしだされ、あとは読み手にゆだねられている。あるいは〈私〉を語るときには、風のような寂寥感が虚飾なくながれており、その清澄さが読むほうに慰藉を与えてくれる。

 

 

さて、ここまで書いてから掲載しないまま、早や数か月経ってしまった。先日、「日向通信」別冊(番外編)『青き地球』が届いたので、紹介しておきたい。

 

いくたびも逆上がりしつつ現世うつしよを回してゐたり公園にきて

 

身めぐりよりまた一人いちにんが消えゆけり今朝の地上は秋のけはひす

 

われに影のなくなるときを思ひつつ秋の公園ひとめぐりせり

 

わが若き日々の一葉背後にはモノクロにひろがる廃墟の東京

 

「青き地球」より

 

どの歌も秋の静かな時間の中で、過ぎてゆく時代や、亡くなってゆく人たちへ思いが寄せられている。人生の深い奥行をみるような連作。