テーブルを拭う夕べはさよならをしなかったひとばかりが遠い

        笠木拓 『はるかカーテンコールまで』港の人 2019年

 

歌集によって違うけど、「はるかカーテンコールまで」はどちらかというと時間がたっぷりある時に読む方がいい。思いがけない言葉が、へんな方向から飛び出してきてとてもスリリング。簡素でピュアな詩情があふれていて、ひとつひとつの歌がゆっくりといとおしくなる。

この歌ではさよならをした人と、さよならをしなかった人たちがいる。さよならをしなかった人は、今も近しく付き合っている人たちのはずだけど、その人たちの方が気持ちの中で遠いという。遠いというけど、ここでは疎遠という意味でもないような気がする。

どちらかというと「さよならを」した人たちへの思いが先にあって、失ったものへの愛惜や哀しみがとりわけ懐かしいものとして感受されているように思う。そんな想念をいちど裏返しにして、手探りで確かめているようにも思える。

上からもう一度読むと、「テーブルを拭う夕べ」という場面の差し出し方がとてもきれいだ。清潔な布巾でテーブルを拭うように、一日のノイズをいちどきれいに払って、リセットする瞬間。そのとき、日常と非日常が反転するのではなかろうか。夕べは、日常が遠くなるとき。そんな境界の領域に失われてしまった時間や情感がふっと喚起されて、やすらぎ、あるいは静かな悲しみがひろがっているように思える。

 

噴上ふきあげは水の額か この手のひらを添えたいけれどどうにも遠い

 

上句の比喩の美しさが際立っている。焦点が当たっているのは、噴水の天辺のあたりだろうか。水が噴き上げっていって、落下する瞬間。それは視覚的には固定しているように見えるけど、実際は常に流れ動いている水の様相にすぎない。その瞬間をとらえて〈水の額〉と呼ぶことに、まず自らの体感の痛みを被せているようで、はっと胸を衝かれてしまう。それは現れては過ぎ去ってゆく時間そのものの謂いではなかろうか。

限りなく過ぎてゆくもの、あるいは幻のような世界そのものの手触りを確かめたいという願いが切ない。

非在への憧れは詩人の証し。

存在するものはいつも遠くて、限りなく深い、という聖書の言葉をつい思ってしまう。